心について

僕はそもそも夏より冬の方が好きなんですが、まあ寒いと心が弱くなるよ。


前々から精神状態は気温と関係があるよねーと言っているんだけどどういうことかというと、寒けりゃ塞ぎがち・negative・傷つきやすい等くさくさして、心が負の要素に蝕まれてしまう。と思うのです。北国の自殺率が高いのは寒いからだと思う。
逆に暖かい時には多少の逆境は鼻からハネ除けられる状態というか、便利過ぎてあまりこの言葉は使いたくないんですが、メンヘラ。つうか南国にメンヘラ少ないっしょ。暖かいとこにそんなイメージないっしょ。なんかイッツゴナビーオーライというか、やはり陽気な気分になるものです。逆に暖かい季節、土地でそうならモノホンである。


というか、精神は着てる服に作用されるというのは囚人と看守の実験で有名だけど、やはり何枚も服を着込む冬には外界に対して心を閉ざしがち、心を隠し意固地になりがちで、そうなると自分の内面ばかり眺めてしまい、自分の内面ばかり眺めてしまうなんてのは、これは自発的に行わない限りイイコトなんてない行動ですから、すると心が病む。
逆に薄着の夏なんかは心の方も薄着でオープンである。ひと夏の恋みたいな言葉があるように、ワンナイトラブ的な事も夏の方が多いのでは?誰か統計とってくれないかな。


このように、特に理由もなく、もしくは些細な事で、積年堪えていた負荷に負ける、落ち込む、ヤル気が湧かない、心が折れる等の現象が冬に起こっているのであれば、実はだいたいが『寒いから』で片付いてしまう。これはねえ、恥ずかしながら、在る。確実に有る。

なので、小難しいことは考えず『ま、寒いからだねえ』で済ますのが精神衛生上最も良い。自分にも他人にも。


で、もうひとつよく言われている事だけれども『健全な魂は健全な肉体に宿る』というの、これもある。
身体が健康なら心も健康!という意味だけど、これ正しくは誤用らしいですね。その辺はWikipediaユウェナリスを調べてくれ。ここでは一般的に言われている意味で使います。

かつて三島由紀夫太宰治について『太宰のもっていた性格的欠点は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった』といっているように、これは確実にある。肉体の温度というものもある。

まあ僕はそもそも三島より太宰の方が好きなんですが、やはりこれはあるように思える。

 

僕の中学生の頃は、絵に描いたような中二病で、子供にわかる訳がないのにニーチェ等を読み、分かったようなしたり顔で同級生を見下し、宗教関連の本を読んで世の理を理解した様な気になって大人も見下し始めて、理論武装し教師とかにも口喧嘩をふっかけて、心理学なんかを勉強したりしてたので、相手は何をされたり言われたりするのが一番嫌だったり怒ったりするのか観察と推考を重ね言い負かしたりして、まあ今思えば子供の戯言に大人が付き合ってくれていただけなんだけど。思春期特有の常に漠然とした苛々や焦燥があり、僕のそれは行動ではなく考える方に向かい、何で人は生まれてくるんだろうとか、何で人を殺してはいけないんだろうとか、死んだらどうなるんだろう等と考えても詮ないことをクドクドと至上の命題かのように考え、そのうちに松本人志のお笑い哲学にモロに影響を受け、お笑いこそが、面白いということこそが一番の正義みたいな感じになっていったのです。
当時、そんな言葉はなかったけれど、陽キャ達や脳筋達を僕は、蔑む意味で馬鹿、と断定していた。
しかし、そんな感じのふてぶてしさなのに、他人にどう思われているか気にして気を使ったりくよくよしたりしていて滑稽だし、なんなら自分が嫌いな奴らにも自分の事は嫌いになってほしくなかった。
原因はわからないけど、そういったモヤモヤから不眠症というか、眠ろうと思って布団に入ると、指と指の隙間に何かが詰まっているような気がして手を洗う。しかしまだ詰まっているような気がして、今度は爪と指の間に汚いものが詰まっている。手を洗わなければ!すると今度は足の指と指の間に何か詰まってる気がして洗うんだけども足を洗ったら手が汚れてしまったんじゃないだろうかと、また手が気になって眠れない。それは強迫観念症だと頭では理解しているのに心はどうにも出来なくて、結局手と足を洗って朝になっちゃうみたいな日が続いたことが3年生の時にあった。


高校に入り、入るつもりのなかった部活。ハンドボール部に入ってしまい、僕は肉体の鍛練をすることになる。
本格的に練習がはじまると、あまりの辛さに即辞めたくなった。あまりのキツさに練習中に嘔吐なんてのは当たり前で、夏なんか筋肉痛じゃない日がなかった。日々鍛えているのに、筋肉痛じゃない日がないなんて恐ろしい事です。水も意地悪の様に中々飲ませてもらえない時代だった。
辛いのに何で辞めなかったかというと、すぐ辞めたら練習キツくて辞めたみたいで格好悪いからだった。や、練習キツくて辞めたいんだけど、周りにそう思われるのが嫌だった。せめてレギュラーになってから辞めてやると思っているうちに、楽しくなってきて、副キャプテンなんかやっちゃって引退までやり続けたのである。

肉体の疲労により、夜は眠るだけだ。ゴチャゴチャと余計なことを考える余裕がない。

話が少しズレるが、心を病んでいる時というのはなんか『暇』というのもあると思う。適度に、自分のキャパを少しオーバーするくらいに忙しくしている時が精神というのは一番安定している様な気がする。


さて、話を戻して肉体が強化されるとどうなったか。
これは一般的に発言に力が増すらしいですね。肉体的に自信が出る事によって発言に圧というか厚みが出るみたいです。当時、力任せに出来ないことあんまないと勘違い出来るくらいに筋力があった。
僕の場合、もともと自分の意見を言えない人間ではなかったので、筋力が増すことによって逆に、今までは気になって発言していたなんか気に障るような事も、どうでもよくなった。いい方に転んだのである。


ハンドボールはチームスポーツなので辛い練習を乗り越えることで仲間も出来た。今でも飲むくらいに仲が良いのに、当時後輩達からは僕らの代は仲が悪いと思われていたのが面白い。なぜかと言うと、練習中に誰かがつまらないミスをしたりするとチームメイトからの罵詈雑言が酷かったからだ。確かに常にピリピリしていた様な気もするがそれが常態というか、結構強い高校だったからまあそれは普通に勝手に自分達も気付かずやっていて、後輩にしたら先輩達スゲー仲悪いよ!と思っていたらしい。

 

母やふたりの姉からは、小さい頃から繊細過ぎる、弱すぎる、すぐ泣く、生きていくのに苦労するだろう云々言われてきた。が、全く自覚はなく、自分が思っている自分というのは、色々と考える性質で反骨精神みたいなものも持っていて、肉体的な強さも手にいれて強い人間だと思っていた。その勘違いは随分と続く。

母や姉達が言っていた事や自分が真に弱い人間、駄目な人間、器激小さい人間だと自覚したのはいつの頃からか。わからない。それが大人になるということか。わからない。

なにがキッカケとかはなく、蓄積されてきたもので気付いたとかじゃなく、昔の自分は恥ずかしいくらい弱いな、といつの日か自覚出来ていたのだ。弱いから吠えるし、反骨だと思っていたものは単なる弱さからくる反発で、自分が強いから自然に他を傷つけてしまうのではなく、自分が弱いから他を攻撃してしまうのだと、自覚出来るようになったというか。


で、そういうことに気付くとまた自分の事が嫌になるものである。それは精神的にレベルアップしているはずなのに、自己嫌悪が激しく進む時でもあって、で、そんなの気にすんのは『冬』と気付いてからは気楽なもんよ。
だって、心がこんなに辛いのは寒いだけなんだから。理由が。
これは気楽になりましたねえ。

 

 

 

 

 


さ、なんでこんな駄文を長々と書いているかというと先日。
仲の良い人達四人でトークライブをしたのですよ。でライブ楽しくて、打ち上げも楽しくて、終電なくなって、ひとり帰って、三人でまあ朝まで飲むかってなったんだけど、俺気づいたら寝てて、寝てたといっても多分気を失った感じだから5分とか10分とかで、で起きたら二人がなんか割とバチバチの口喧嘩してて、え?何あった?みたいな。僕はしばらく聞いてたけど、何でふたりがそれぞれ怒ってるのか何の話をしてるのかは分かるけど、何で喧嘩してるのか何をそんなに譲れないのかはサッパリわからなくて、まあ、それは人それぞれどんなに親密だろうが他人には理解出来ない部分があるし、ないといけないと思うし、自分にとっては大切な矜持があるし、まあいいんだけど、僕は『寒いから』でしょと思った。
でも、そこに昔の僕がいたら大変だったろうなとも思う。ふたりの口論の内容を越えた僕の正義をぶつけそうで。


まあ、その場は何となく終わったんだけど、特に仲直りするでもなく、ふたりとも繊細だから心配ですよ僕は。仲直りしたんだろうか。俺は次あったら仲直りの握手をさせようと思ってんすよ。ダサいけど、こういうのはやっといた方がいいんですよ。大事。
大人になると自分が悪いと思ってんのに中々謝れなかったり、そもそも自分は悪くないと思ってしまったり、本当に悪くなかったりするんだけど、でも喧嘩したらお互い謝って仲直りの握手をすれば、子供の頃はすぐ仲直り出来たし、こういうのは早い方がいいんですよ。


なんならもっと言えば、言うかもう、ハッキリ言うぞ。あのね、多分ね、俺が寝てたのが悪い。俺が起きてりゃこんなことにならなかった。もっと言えば、帰った奴が悪い。なので結論としては、デビが悪い。