成人式のスピーチ

成人の日は自身とは関係がなくてもやはり目出度いもので、街で晴れ着を着ている女性を見ると華やかな気持ちになるし、歓楽街で酔って騒いでいる新成人を見ると、お!イイね!と思う。

 

成人の日は毎年、毎年、自分の二十歳の頃を思い出す。結構、みんなもそうなんじゃないだろうか。SNSで自分の二十歳の頃の写真を貼ってるんじゃないだろうか全然関係ないというのに。

これはちょっとねえ!恥ずかしいことですよおお。お!可愛いねとか、お!格好いいね、とか若いねえ!とか、あわよくば、え!二十歳の頃と今と全然変わってないねえ!今も二十歳で通じるねえ!とか言われてチヤホヤされるのが目的なのだ。
これはまあちょっとシャンプーとかしてる時に『キャアアアッッ!!』と叫んでしまうくらい恥ずかしいことですが、そんな思惑がバレバレでやらかし臭がプンプンしますが、そういう迂闊な行動をしてしまうのも全然理解できるくらいに、自身とは関係がなくても成人の日は何だか晴れやかな気分になるものである。


今日も僕は自分の成人式の日の事を思い出した。あの日、僕はまだ19歳だった。
というのも僕は早生まれで誕生日が3月なので仕方のないのだけれど、お酒は今夜合法で飲めるのかな?と白々しく思ったものです。


成人の日。僕は母に買ってもらった洒落たベージュのチェックのスーツを着ていた。成人式には当時付き合っていた彼女と一緒に行こうとしていたのだけれど、会場が僕の家から近かったこともあり僕の家に集合。彼女は赤い着物を着て登場した。着付けとかメイクとかちゃんと美容室でして貰ったんだろうけど、なんかメイクが凄く濃くて、いつもの感じの方が可愛いのになあと思ったけど僕は「可愛いね」と嘘をついた記憶がある。
あとで母親からいつもの方が可愛いねえといわれたけど、いやお前が言うなよと思った。本人も自覚があったのかウチでメイクを直していた。直すんかい!と思った。

 

会場につくと沢山の人でニギニギしており、久しぶりに会う小・中学校時代の友人とかとお喋り。格好良かったアイツがぶくぶくに太っていたり、可愛いかったあの娘は結婚してたり。僕は会う人会う人から変わらないねえ!と言われた。僕は老け顔だったので昔から見た目はあまり変わらないのだ。


川崎市の成人式に出席したんだけれども、彼女はなんか実行委員会みたいな組織に入っていて、成人式の裏事情みたいのを教えてくれて、成人代表のスピーチはなんと私達の高校の人がやるんだよ、と教えてくれた。

僕達の通っていた高校は7クラスしかなくて、僕は明るいのから暗いのまで大体誰が誰かは分かる自信があったのだけれど、誰?と名前を聞いてもピンと来ず、実は彼女も全然知り合いではなくて、実行委員会で顔合わせがあった時に、在校時全く喋ったことなかったのに、馴れ馴れしくアダ名で呼んできたりして、あん?コイツ誰だ?なんかムカつくなあと思っていたらしい。タメ口で喋ってくるのが腹立つとも言っていたけど、同い年なんだからそこはいいだろうと思った。

こんな言い方はあまり良くないのだけれど、高校時代つるんでるグループが違うとかそんなんじゃなくて、多分彼は高校時代あまり目立つタイプではなかった。しかもオタク的なグループとかでもなくて普通の人。いわば真のステルス機能を備えた人材だったのだと思う。しかし、大学進学と共にそんな自分とはオサラバして明るく軽薄な感じに変身したのだと思う。
一方、彼女は高校時代ギャルだった。ギャルギャルしいギャルだった。すぐ助平な事をさせてくれそうなギャルだった。しかし二十歳の頃は昼は市役所で働きつつ夜間に大学に通うなどというトンデモ努力家になっていた。


まあ、僕はそっか、そんな人もいたんだねと話を聞いていて、彼がスピーチをやるときに顔を見れば思い出すかな?と思っていたけど、その時になっても思い出せなかった。帰ってから卒業アルバムを見返したけど、見た目はあまり変わっていなかったような気がするけど、やはり思い出せなかった。


そんな彼があまり面白くないスピーチしていたら急に声を荒げはじめ、のそのそとスピーチ台の上に上がり、何やら叫びはじめた。
何だあ?と思っていると、何やら要領を得ない、大人は下らないとか話が長いだとかこんな式ぶっ壊してやりたい的な事を喚いていた。

自分でこんなことを言うのもあれだけど、川崎という街は多分全国的にもそんなに治安は良くないのかもしれない。ヤンキー文化というか。でも、そんなヤンキー達すらも彼の唐突な行動に白けた様子。何なら市長とかの話とかの時の方がよっぽどちゃんと参加している空気が会場には流れていた。

事実、彼はスベリまくっていた。いや笑わそうとはしていないんだけれど、スベリにスベリ、スベリまくってもう息も絶え絶えだった。これはスベリまくったことのある人間にしかわからない事なんだけれどもスベリまくると呼吸が浅くなり顔面が蒼白になる。しかし興奮はしているから声はデカい。その場違いな声のデカさに益々スベる。みたいな。あんまり知られていないことだけれども人はスベる事によって死にかねないのだ。

やはり元々彼は陰の者。場の盛り上げ方も知らないのだ。内容もスカスカで、そのスピーチの内容が面白かったらその場もどうにかなったのかもしれないがユーモアも0。おそらく会場は湧くと思っていたんだろうけど真逆の空気。スベリにスベリ、失せろ・寒い・お前誰だよ等の野次なども飛び始め、スタミナが切れたのかそれとも魂が燃え尽きたのか、段々と声が小さくなり、身長も出てきた時の2/3程のサイズになってションボリしてしまい、土塊みたいな色になって、大人の職員達が数人出て来て首根っこ捕まれて静かに退場するときに会場が少し笑ったくらいだった。


彼は負けたのだ。
いや、何の勝負だったのか。正直、みんなの思い出となる一生に一回の成人式に何やってんのよ、とは思う。俺は今35歳だけれども、あんなにスベッた人を人生で見たことはない。


しかし僕は思うのです。
彼は何か自分の中にあったモヤモヤと闘ったのだと。
そして負けたのだ、と。
闘った、その一点のみ立派だと思う。


もしかしたら大人になるということは、そういうことなのかもしれない。頑張っても報われることの方が少ない。けど闘いを挑まなければいけない。社会と、自分と、闘って闘って傷だらけになって、そうやって仲間が出来ていくのかもしれない。居場所が出来ていくのかもしれない。彼には仲間も居場所も出来なかったけど、闘った結果こういうこともあるよ!と、無策で身の丈に合わないことをしても、大人になったら誰も止めてはくれないし、叱ってくれないし、ただ敗亡するだけなんだよ!と、大人になって自由になるというのはこういう危険性もあるんだよ!と、身をもって証明してくれたのだ。とんでもなく深いスピーチだったのだ。きっとそうだ。


35歳になってようやく気付けた。偉い!偉いよ!あの人!

 

そんな事を思い出して、久々に高校の卒業アルバムをめくってみたけど、名前も思い出せないし、顔も思い出せなかった。でも彼の素晴らしいスピーチは毎年僕は成人の日には思い出すと思う。


ありがとう。あの人。