死ぬ前にひと笑い

多分、10月17日は父親の命日だ。多分というのは確か下の姉ちゃんの誕生日の2日前だった気がしたからで、今から6、7年前に死んだ。


や、ハッキリ覚えてないんかいッ!この親不孝者がッ!と思われるかもしれない。
果たして父の命日をハッキリ覚えていることが親孝行なのか?違う。こうして、たまに思い出すことが親孝行なのだ。

 

父は単身赴任だったりなんだりであまり家にいなくて、僕が高校一年の夏くらいに出張行ってくると言って家を出てってからは完全に家を出た。
多分トータルで五年くらい一緒に住んだのかもしれない。
母と父は職場で出会ったので、その職場の同窓会みたいのに普通に来てたよと母から聞いた時はなんか笑ってしまった。ずいぶん長い出張だなと思ってたのに同窓会普通にくるんかい、と。

幼少の頃から、たまにしか会えなかったけど、たまに会うと毎日会っているかのような、昨日も会っていたかのようで明日もまるで会うかのような接し方をしてくる、人懐っこいのか掴みづらいのかよくわからない人だった。いつもお決まりの駄洒落をしつこいくらい繰り返し自分で笑っていた。親父のボケはとにかくしつこかったイメージがある。こちらが笑うまで何度も何度もボケるのだ。


僕が23、4くらいの時に、携帯に知らない番号から電話かかってきて、出ると父で、明日どこそこに何時ころ来てくれと言われて行くと「ワシ肺癌になったんだわ。手術するから家族の同意書必要で純さコレ書いちくりー」みたいなスゲー軽い感じで、こっちも「あ、そうなの?」みたいな軽い感じで返事したけど、それは驚き故の軽い感じというか、まだ驚いてるのに話が先に進んじゃって気持ちが作業に追いついてないというかそんな感じで、でもまあ端からみたら互いに軽い感じというか、久しぶりという挨拶もないし、互いに近況を報告するとその時の父は、言葉からデータをとり例えばある看護師が何年以内にこういった医療ミスをする確率がこれくらいあるみたいな統計をひたすらとっていた。つまり何をしてるのか全然わからなかった。


その時は普通に手術は成功し事なきを得た。
この後、何度か再発し、その度に肺を切除するもんで徐々に父の肺は小さくなっていった。

 

 

 

まあいい、父の話を色々してるとまた冗長なブログになるので、命日の話をしよう。

 

 

父の容態が急激に悪化して、いつ死んでもおかしくないと父の姉である和子おばさんから連絡があり、というかそんな状態だったことすら知らなかったけど、急いで京都駅のすぐそばにある病院にいくと、もう父は意識もなく喋れない状態だった。

ここから、姉ふたりと僕と和子おばさんで代わり番こで父の病室に張り付く日々がはじまるんだけど、結局最後まで意識は戻らず、いつ死んでもおかしくなかった状態から実に一週間も父は生き延びた。

16日の夕方くらいから心電図の反応が徐々に弱くなり17日、深夜から朝方になるころ、誰の目に見ても心電図の反応が弱くなった。
下姉は看護師をしていたので、あ、これはいよいよだね、と呟いた。


和子おばさん、俺、下姉、上姉の順でぐるりとベッドを囲み、和子おばさんがお別れの言葉を泣きながら、つっかえながら言いはじめた。
父の子供の頃の話だとか、 それこそ直近の話、色々と話してそれを終えると和子おばさんが目配せをしてきた。

次に俺が話しはじめた。しかし、この一週間でこちらから一方的にずっと話しかけていたから話すことなんて、もうほとんどなかった。僕は和子おばさんから意識がなくなる前日、父はカツカレーが食べたいなあとポツリと言っていたらしく、じゃあかわりにカツカレーを食べてきたけど、そこのカツカレーあんまり美味しくなかったよ。もっと美味しいカツカレー東京にあるからね、みたいな話を泣きながらした気がする。

次に下姉が泣いて言葉につまってしまって少し短めのお別れの言葉を告げた。

上姉は中学校の教師をやっている。なので人前で話すというかスピーチも得意だ。三姉弟の中で上姉が一番涙脆いくせ一番しっかりしているから、下姉が短かった分尺調整というか、さらに一段心電図の反応が弱くなるまで喋った。

上姉の話しが終わり、いよいよとなり父の手を一層強く握ったり、さすったりしていると、心電図は微弱な反応のまま安定した。あれ、安定したね、と変な間が出来た。

すると和子おばさんが、父の子供の頃の話をはじめた。


その瞬間、3姉弟は目が合った。互いに言いたい事はすんなりと理解出来た。

 

 

『え?二周目いく?』である。

 

 

和子おばさんが、変な間に耐えきれず喋りはじめた事により、なんとお別れの言葉二周目がはじまってしまった。マジかよ。
あんなにシンクロしたアイコンタクトは先にも後にも経験したことがない。


自分から二周目をはじめたくせに和子おばさんは割りとすぐ話し終わり、俺に目配せをしてきた。

 

俺はそもそも喋ることはもうないし、お別れの言葉って一回しかないと思い込んでいたから少しパニックだし、つーか目配せすんなや。分かるよ何となく。つか、ひとりづつ言うシステムなんなん?二周目バラでいいじゃん。と思いつつも、これから自分がどうなっていきたいか、自分をあなたに誇れる様に生きていくよ的な事を言った気がする。即興にしては中々いい台詞が吐けた気がする。


僕が下姉にバトンを渡そうとすると、若干食い気味に「うわわああん」みたいな、台詞が文字でハッキリ見える感じで泣いて、ベッドに突っ伏した。

 

上手いッッ!!

 

これなら何も喋らなくていいし、不謹慎な感じがしない。三姉弟の場合、やはり真ん中が一番要領がよく世渡り上手なのだ。


突っ伏す下姉を上姉はゾッとするくらい冷たい目で見ていた。
少し沈黙すると和子おばさんが、上姉に「ほら言ったって、お別れの挨拶したって」と催促してきた。

 

上姉は心底驚いた顔をした。

 

ベッドに突っ伏した下姉は一層激しく嗚咽したが、それは笑いを堪えているようだった。横顔から見えた口角は上がっていた。


しかし、そこは教師として即興で話すことも多いのだろう。一周目の涙声はなんだったのか、やたらハキハキと今後の事務作業的な話をしていた。まずお医者さん呼んで死亡確認してもらって、葬儀会社に連絡…みたいな。
帰りのホームルームの鐘が聞こえるような素晴らしいスピーチだった。

 

 

 

 

しかし。

 

父は、まだ死ななかった。確実に弱まっているものの、反応はまだある。

 


沈黙が流れる病室。
目配せする三姉弟。今度は和子おばさんとも目が合った。

すると和子おばさんが「あんな、これホンマ…」と喋りはじめた。

 


うわー!!悪夢の3周目がはじまるのかー!!と焦る俺たち。和子おばさんはこう言った。

 

 

「あんな、これホンマ、死なへんなあ~…」

 

 

僕はとっさに「や、すべらんなあ~、みたいに言わないでよ」とツッコんでいた。

死なへんなあ~の発音が人志松本のすべらない話での松本さんの「すべらんなあ~」と完全に一致してたのである。


これにより不謹慎かもしれないけど三姉弟、大笑い。つられて和子おばさんも大笑い。四人で大笑いしてる内に気付いたら父は死んでた。
今思い返してみると、死ぬ!ってなってから一週間も経っているし、皆がベッドを囲んでからも30分以上経っていた。

 

 

 


親父の最後のボケ、しつこかったなあ!

尊敬に値するよ全く。