ファンになるということ

新宿にいたのでTOWER RECORDに寄り、羊文学の新しいミニアルバム『きらきら』を購入。
やっぱいいですね。歌声の感じと音楽の、演奏の、歌詞の感じがガッチリきてるというか。
今回の「ロマンス」みたいの作れるのなら、もう少し前のロック調のやつに戻しても大衆に広がりそうな感じに出来そうな感じするんですけどね。羊文学のロック調のやつ好きなんですよね。

さ、なんかいっぱしのファンみたいな事を言ってるけど、果たして僕は羊文学のファンなのだろうか?
そもそもファンとはなんなのだろうか。ファンの定義とは?

ファンは、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のこと。「熱狂的な」を意味するファナティックの略。らしいです。

 

支持しているという観点から言えば、CDを買っているので支持してるっちゃしてる。しかし熱狂的かと問われれば疑わしい。ライブに足を運んだこともない。でも好きは好き。
うーん…ファンとは一体なんだろうか。


新しく、ミュージシャンを好きになる時に何をもって好きになる?と聞いた時に「顔」と即答した友達の女の子がいる。僕はこれに大変感銘をうけた。これは真理だと思う。もちろんミュージシャンだから、楽曲が一番大事ではあるけれど、どんな素晴らしい歌詞だろうがメロディだろうが演奏だろうが、結局顔。ルックスを好きになれなかったらファンにはなれない。という話なのだ。
いや、そんなことない!音楽は世界を救うんやで!見た目とか関係ないんやで!という方もいるかもしれないが、それはそのミュージシャンの美醜が許容の範囲、または自分的には好みであるだけだ。


お笑いに置き換えて考えてみよう。お笑いなんて既存の価値観ぶっ壊して良しみたいなとこある。だから醜女や醜男の方が良かったりする。良かったりというか、良い。それが美しかったりする。しかし、面白くて格好良かったらそれはやはり最強である。お笑いのプロとは如何にフリを作るかだと僕は思っているので、美醜が整っていれば、何もせずとも自ずから笑いやすい環境が整ってる。それが美醜の力だと思う。


話が『美醜』についてにそれてしまった。『ファン』についてだ。話を戻そう。
羊文学はルックスもいい。だから俺はファンでいいな、もう。


自分でも、うわー俺単なるファンだなーと思ったことはある。

僕は解散してしまったけど、東京事変というバンドのファンだ。支持していたし愛好していたし熱狂的だったと思う。
特にファンだなあと思ったのは、ライブに行った時のことだ。
東京事変のライブは曲の合間にほとんどトークは挟まない。楽曲をブワアーッと圧倒的に見せられるというか魅せられる。
全部終わって、アンコールで出てきた時にちょびっと喋る。そこでちょっと笑い話みたいな事を喋るんだけど、会場の他のファン達は笑ってるけど、正直全然面白くなかった。ショックだった。僕の好きな東京事変トークですら面白くあって欲しかった。や、音楽家なのでそんな必要はないのだけれど、あんなに凄い音楽をする人達なんだからトークですらも面白くあるべきだ!みたいな気持ちというか、でも気がつけば僕も顔がニヤニヤしていた。えっ??なんで??自分でもわからない。全然面白くないトーク聞いても笑っちゃう。これはファンだなあ俺え!って思いましたね。


このことから考えると、ファンとは許容範囲が広がることなのかなとも思う。
プラス面はもちろんのこと、マイナスも我慢できるというか、むしろ愛しい。みたいな。

そう考えると恋愛に近い気がする。
しかし恋愛と違うのはそれがコチラからの一方的な気持ちであるということ。そして、それでいいと思えるとこ。だろう。

ファンとは報われないものなのである。報われないというか、報われるという概念が烏滸がましい。それを越えて支持、愛好、熱狂するものなのである。


えー、ファンって大変だな。なんか運動部のマネージャーみたいだな。


まぁ、でもこの結論は僕のファン論であって、ファンにも色々なカタチがあるのでしょう。

 


僕も一応お笑いをやっているわけで、ファンなる人がつく存在ではある。
しかし、やさしい雨はファンは激少ない。ですが極少数ですが、確かにいます。
非常に有難いことです。

全然関係ないのだけれど、人からやさしい雨のファンは品がある、と誉められたことがある。こんなに嬉しいことはないと思った。

ファンに品があるということは、僕らにも品があるということで、僕が人生で最も忌む『下品』から遠いということになるわけで。


じゃあ、その『下品』とは一体何を指すのか。という話になるけど、それはまた別のお話