無能な奴ほど話が長い

目的地までの道のりを口頭で説明してもらうとその人が賢いかどうかわかるなんてのをよく聞く。
賢い人は端的に少ない言葉で相手に情報を伝達出来るという。


確かになあ。
賢い人と話していて自分が恥ずかしいなあと思った経験はみんなあるのではないでしょうか。
なんか将棋の強い人と遊んだ時の、こちらがよくわからない一手を打ってきて、何だー?と思ってほったらかしにしてたら、相手の次の手でもう詰んでる。みたいな感じ。
ふふふ。この将棋の例えですでに僕は頭が悪そうでしょ?だって将棋をしたことがない人には伝わらないし、技能の差によって感じ方も違うのに、僕の主観ではこれが一番近いから、こうしてここに書き記してしまうのだ。


僕なんかはこのように、道を説明するときも「この道で本当にあってるかな?と不安になるくらい真っ直ぐいったら右」とか「こういってこうのところをこうもいけるしこういくとこんくらい楽な感じだからこうしたほうがいい」とか主観たっぷりで喋って結局図を書いて説明するなどよくしてしまう。というか大体そう。
要約する能力ってシュッとしていて格好いいよね。憧れる。


言い方をかえれば、話の長い奴は無能ということ。これ、よく聞きますがそうなると全国の校長先生などは全員無能ということになってしまうけど、優秀だからこそ校長先生をやっている訳で、無能ということはないだろう。
では、なぜ全国の校長先生は話が長いのか?もしくは、話が長いイメージがあるのか?

と、じゃあ校長先生はどんなこと言ってたかなあと思い返してみるも、学生時代の記憶なんてのは大分古いからかも知れないけれど、ひとつも思い出せない。そのくせに長かったなあという記憶だけある。これは由々しき事態ではないでしょうかあ?
それとも大人になってから聞けば、あの冗長で不毛な時間も実りのあるものと捉えられたのだろうか?むしろ、そう捉えられない内は子どもという事だろうか?


僕は人の話を聞くのが好きだ。別にだらだらと結論もなく谷も山もない、ただ殺伐とした原野そのものみたいな会話も嫌いじゃない。一般的に言われている、つまらない女の話、なども面白みを発見して延々と聞いていられる。
しかし普段生活していて話の長い人に苛々することも、それは確かにある。どういう時にそうなるかというと、事務的な会話の時だ。
役所などで弛緩して喋られたら腹立つし時間も喰う。仕事の上での報連相も確定した情報を主観を抜いて正確にしてもらいたい。その後で弛緩して欲しい。そこに大切な情報が隠されている場合もあるので。


そう考えると、僕は文字で書かれた文章は長いほうが好きなんだけど、それも小説に限ってだなあ、と思う。
機械の説明書とか契約書類など、なにをそんなに長々と小難しい言葉を連ねる必要があるのか?と苛々してちゃんと読まず、本来得られる精密な動作によるサービスを逃したり己に圧倒的不利な契約などを結びがちだ。そんなことをしているのが頭の悪さを証明してしまっているショボン。粗凡。


そう愚考するうち、ひとつの結論に至る。


無能な奴ほど話が長いというのは非情な表現ではあるが確かにあるかもしれない。残念。無能。
だけど!だけど、こと文章に関してはその限りではないのではないか?ということだ。


会話、対話というものは人と人がするものだ。
そこには言葉の意味以外にも、視線や表情、声色の高低や声の温度そして速度、身振り手振りの挙動、そして周囲の環境や状況、互いの関係や立場や果ては境遇に至るまで様々な要素が、その会話での言葉の意味の埒外に既に存在している。

例えば「あなた馬鹿ね」という言葉があるとして、これは通常罵倒する言葉の意味だけど、もしこれが会話ならば上にあげた様々な要素をこの言葉の本来の意味以外から感じとって「あなた馬鹿ね」の意味を感得するのである。
それは単なる罵倒なのか、恋慕の表明なのか、諭しているのか、教育なのか、発破をかけているのか、ツッコミなのか、哀愁なのか、結婚を間近に控えていたのに俺を庇って悪の組織の凶弾に倒れ殉職しちまった巡査の墓の前で言った感謝と悔恨と復習を誓う「馬鹿」なのか、とにかく口頭での言葉には、様々なニュアンスが漂っていて、言葉が少なくても、なんなら言葉がなくても、意味を感得出来るのである。

しかし文章だとそうはいかない。「あなた馬鹿ね」という言葉には「あなた馬鹿ね」という意味以外に意味はない。それは誰がどんな時にどんな場所で誰にどんな目的でどんな調子で言ったのか子細に明記しなければ「あなた馬鹿ね」のニュアンスが伝わらないのです。正確に伝えようとおもえば思う程、文章では長くなるのです。それ以外に意味はないよ!!と文章で説明するには果てしなく文言を連ねるしかないのです。
だから説明書や契約書は長いのです。

 

「天才とは1%のひらめきと99%の努力からなる」
これは偉人トーマス・エジソンの名言だけど、文字だけで見れば素晴らしいけれど、例えば、陰部にバターを塗り大小様々な犬にこれを舐めさせ恍惚、涎をだらだら垂らしながら胡乱な目付きでの発言だったら、何イッちゃってんのコイツと思うだろう。ふたつの意味で。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
かの福沢諭吉大先生の至言であるけれど、麗しい女子児童の縦笛をベロベロ舐めながらの発言だったら確実に人の下の人だと思ってしまうだろう。


なので、文字で何かを伝えようとする時には、ちゃんと説明しようと長くなるしかないのです。


でも、要約の出来るシュッとした人には憧れる。
なので今日のこの駄文も今から華麗にシュッと要約してみせよう!

 


『目的地までの道のりはGoogleに聞け!検索検索ゥ』

 

これだねッ!