優しくされると泣いちゃうからね

僕は、あまり話したことない人から冷たそうとかスカしてるとか冷血人間だとか感情をどっかに置いてきただとか悪い意味で何考えてるか分からない等と言われがちなんですが、本当は結構すぐめそめそしちゃったり、映画やドラマなんかもぎゃん泣きというか、そういった感じなんですよ。
実生活では、人に優しくされた時に特に泣きそうになりますね。泣きそうになるというか、それが弱点というか、一気に涙腺が緩くなる。

 


昨日、ブログに正式な感じで辞めると書いたら、ブラックパイナーSOSの山野さんから電話がかかってきました。
山野さんという人は、僕が一番仲良くしてもらった先輩で、なんというか成人してからの僕の考え方の根本を植え付けられた人というか、とにかく一番お世話になった人なんです。
僕が辞めることは去年の夏にはほぼ決定していたのですが、山野さんには一言も話していなかった。話せなかった。話す時は会って直接話したかった。僕は最後に話そうと思っていたんですが、結局世の中がこんなことになってしまいタイミングを逃し会えずじまいでした。

山野さんは僕のブログを読んだらしく、すると心がザワザワして、すぐに仲間内の作家の方やアイデンティティ田島などに吉本辞めるつってんだけどどういう事ー?と電話したらしい。
そのふたりにもいずれちゃんと話さないとなとは思っていたんですが、まだ何も話していませんのでふたりも事情は知りません。
で、僕のとこに電話かかってきて、まあこれこれこういうことでと話すと山野さんが「ちょっと、お前勝手にサッパリしてんなよ」と笑われました。
何も知らない山野さんからしたら、このコロナの感じで家に閉じこもってる内に頭バグったのかと心配して電話をしてきてくれたのです。まあそれは的外れでしたけど、本当にありがたくて泣きそうになりましたね。
今日の昼間も田島からLINEがあって、俺がもし女の子だったら返信すんの嫌だなあと思うくらいの長文がきて、返信すると少し熱い感じの返信が来て俺が女の子だったらもう返事しないよと思いましたね。今でもちゃんと気持ち悪くてやっぱり好きだなあと思いました。

去年の12月の太田プロライブ月笑終わりで、マシンガンズの滝沢さんインスタントジョンソンのゆうぞうさんと飲ませていただいた時もお二人が優しくて、優し過ぎて、僕はねえ、居酒屋なのに嗚咽を止められなかったですよ。店員さんが凄い見てて恥ずかしかったです。ゆうぞうさんまで泣きはじめて、滝沢さんはずっと笑ってるし、何だか凄くいい空間でした。


ほんとね、みんな優し過ぎ。損しますよそんなに優しいと。僕はこんな感じなんで、あと結構前から決めていたことなんで今はサッパリしたもんで充分に反応出来ていないかもしれませんが、まあ、優しくされたら泣いちゃうから。泣いちゃうのダサいじゃないですか。だから我慢してるんですよ色々と。
納得出来なくて揉めたこともありましたけど、僕は太田プロで本当によかった。
現在事務所も閉まっていて、しばらくそれも続くだろうから会社の人にもちゃんと挨拶出来なさそうですね。


ほんとね、優しくされたら自分が優しくない人間なのが分かっちゃって嫌なんですよ。
これは偏見ですけど、お笑いやってる人ってみんな優しいです。愛に満ちてます。僕は基本的にそういう人間ではないので、これからはお笑いから学んだ「人に優しく」というのをなるべく実践して生きていきたいと思います。


何か終わり感凄い文章だけど、まだ1ヶ月半以上はやりますから。ぜひ最後に見に来てよ6月6日。でわでわ

 

単独ライブについて

やさしい雨単独ライブの予約が18日(土)のお昼の12時から開始です。まあ今日です。や、や、やどうせ延期してやるならもっと先にしてよ!と思うかもしれませんが、この日程も3月に決めた訳で、2月末日に4月1日があんなことになってるなんて予想出来なかった訳で、1ヶ月で激動でしたね。なのでタイミングを見計らっていても終わりが見えないので、6月6日にやります。ぜひぜひぜひ。

最近このブログで書いていた小説は単独ライブのプロローグです。読まなくてもいいんですが読んでいただけるとより楽しめるかも。それをちょっと修正したものにライブ本編の台本とエピローグを足したモノを物販しようかなと思っています。興味あったら買ってネ。


さて、この6月6日をもって僕はお笑い辞めます。結構前からスケジュールに5月に仕事入っててそこまでやるのは確定していたんですが、それも3月末にはコロナでなくなったのでいつ辞めても良かったんですが単独ライブで〆にしたいと思います。もし様々な状況で開催出来なくても辞めますキッパリ。
なので6月6日がやさしい雨のラストなんでぜっぴ見に来て下さいナ。


お笑い辞めるというと、必ず次何すんの?と聞かれるんですが何も決めてないですね。ただ辞めます。芸能系は裏方も含めてやるつもりないですね。だったらお笑いやってるわ、と思うし。お笑いは趣味でいいです。

普通に昼間働いて土日は休み。みたいな仕事を探したいと思っていますが、如何せん世の中が社会辞めちゃおうとしてる状態ですから厳しそうですね。なんか当てがある人バイトでいいから紹介してくれ。目論見は甘いだろうけど『売れてない芸人』なんていうブラックな仕事を16年もしてたんだから大抵のことは我慢出来ると思います。

まあ、理想を言えば本屋さんか動物関係かカフェーとかバーの店員か。まあ、何でもいいけど何でも楽しそうですね。今後の人生にワクワクしてます。

 


みなさんお元気ですかね。それだけが気がかりですね。みなさんお元気で、出来ることからコツコツと粛々と。健康第一ですね。

 

YJ文庫『駄目なひと-完-』

  どんなに楽しいことだって終わりがあるのは「楽しいこと」を楽しんでいるからなんだ。と、その時の私は唐突に理解した。

  薄ぼんやりとした満月が私たちを照らすロマンチックな舞台装置。酔った時の甘い息やその体温。勢いや背徳感。移動距離と出来事の多さからくる満足度と罪悪感。心地よい慣れた大人の触り方。そういった数々の林さんの手練手管は楽しかった。楽しいことを提供され、私はその楽しいことを楽しんでいた。
  だけど、それには終わりがあることを私は知っていて、いつものことの繰り返しだと思うと急速に気持ちが萎えた。だからバレバレの嘘をついて私はその場を凌いだのだ。
  里中曰く林さんは既婚者で、危うくペロッといかれるとこだった。あとで覗いたFacebookには子供や奥さんの写真で溢れていて、幸せそうで、いいパパだった。そんなもんだよなと思う。林さんは手頃な楽しみを探す人だったんだろう。自分が、心のどこかで終わりのない楽しみを探していて良かったと思った。


  松阪くんと遊んでいても何も楽しいことは起きない。そう、特に楽しいことは起きない。でも、そんな何でもない日常を「楽しむこと」にしたから終わりがない。


  互いに一人前のお弁当を作ってきて一緒に食べた新宿御苑のピクニック。園内の飲酒は禁止なんだけど、私は赤ワインを持ち込んでプラスチックのグラスで乾杯をした。松阪くんは元来奥手なのか一回家にいくのを断ったからなのか、周りはカップルだらけなのに膝枕はおろか手を繋いでこようともしなかった。私はとうとう拗ねて大温室では不満な顔を存分にさらし何なのその顔と言って笑う松阪くんに腹が立った。

  花火を観に行った時、私は浴衣を着ていったら松阪君も浴衣を着ていて、丁度散髪したてだったのか大分短くなっていて西郷隆盛感が凄くって、そうなると、どうしても犬を連れて歩いて欲しくなりペットショップに寄ってたら花火がはじまってしまい笑った。

  ある時、デートに遅刻した松阪くんを苛々しながら喫茶店で待っていると、隣の席のカップルの会話が聞こえてきて、一番好きな動物は?理由は?じゃあ二番目は?とどこかで聞いたことのある会話をしていた。男によるとそれは心理テストで、実は動物はどうでもよくて肝要なのは理由の方で、一番目にあげた動物はなりたい自分の理想像だという。二番目は好きなタイプらしい。そのカップルの女の子は一位は猫で目が大きくて可愛いかららしいので、他人から「目が大きくて可愛いね」とか「目ヂカラあるね」とか言われると嬉しいらしい。二位の動物が亀で、ゆっくりしか歩けないの可愛いとのこと。歩幅を合わせ一緒にゆっくり歩く人が好きなんだろう。別にだから何というわけじゃないけれど、相手に合わせてこういう言動をすれば心理的に気安くなるということだ。そして、これ林さんにやられてたなと思って笑った。こんな子供騙しのテクニックを使う林さんはダセいけど、それにコロッといきかけた私もダセー。松坂くんが遅れてやってきてアイスコーヒーを頼む。一番好きな動物と理由を聞くと「ジェレヌクかな」とか知らない動物を言ってきたので少しイラッとしながら画像検索。「鹿とかインパラみたいなやつなんだけどさ、とにかく顔が小さいの。スタイルも凄くてさ10等身くらいあるのよ」と続けたので、そういう風になりたいんだと思い「松坂くんも顔小さいよね」というと「4頭身半しかないから」と大きい声を出してきたので笑った。

  ギターを買おうと思うから一緒に買いに来てくれない?と誘われ御茶ノ水に行った時も私は興味がなかったから何か楽しいことを探したら、明治大学の地下で拷問器具を無料で展覧しているというので行くとほんの小さなスペースのみで他はほとんど日本の歴史の収集物が展示されていた。地域のボランティアなのか枯れたお爺さんが座っていてやたらと説明してくれて、調子に乗れば乗るほど喋るので楽しかった。隣街の古本とカレーの町である神保町まで歩いていって、給食のカレーみたいな下品な感じのカレーを食べた。松阪くんは揚げシウマイをトッピングしていて、カツとかコロッケならわかるけど揚げシウマイって何それと思っていると「俺はもっぱら揚げシウマイ」とCMの決め台詞みたいな事をいった。食べ終わると「や、ギターを買いに来たんだよ」と言われ歩いて戻るのでそのまま御茶ノ水を通りすぎて秋葉原まで歩いてやった。途中で全然気づいていたのに、秋葉原についてからツッコミをいれてきたので笑う。神田川沿いに歩いていたら赤茶けたレンガ造りのお洒落な建物があり「あんなとこに住んでみたいな」とか言っていて近付いて見るとただの公衆トイレでふたりして声を出して笑った。

  流行りの展示があり美術館にデートに行った時はふたりとも絵のことなんてちっとも分からないかど、どちらがより専門家みたいな事を言えるか競いあって知ったかぶりのオンパレード評論家気取りのウザイ発言で笑っていたら周りから白い目を向けられた。

  はじめて松阪くん家に泊まり向かえた朝。近くに美味しいモーニングを出す店があるよと言われたのに電車に乗った時は日本語を知らないのかなと思った。魔女の宅急便に出てくるパン屋さんのおかみさんのオソノさんみたいな店主のスープとパンのモーニングは確かに美味しかった。帰りは歩こうと二駅分歩いた。途中あった公園に今どきにしては珍しく、球体のアスレチックがぐるぐる回るやつがあって、私がそれに飛び乗るとヨッシャと気合いを入れて松阪くんがぐるぐる回してきた。キャーキャー騒いでいると調子に乗ってちょっと怖いくらいに加速させて来て、あ、ちょっとコイツと思っていたら、自分で勝手にやったくせに目が回って松坂くんは少し離れたとこで吐いていた。近年で一番笑ったと思う。

 


  ただ、ぶらぶらと散歩をするように日々は流れていきます。楽しく。笑って。そして松坂くんと同棲をはじめてもうすぐ2年になる。
なぜ私がこんなに色々と思い出しているかというと私は明日、この部屋を出ていくからだ。
  なんでもない日々を楽しむことにしたからその楽しみには終わりがない。それはそうなんだけど、なんて傲慢なんだろう。そんな気持ちも日々摩耗して当たり前に「楽しむこと」が出来なくなってしまった。私は「楽しいこと」も欲しくなってしまった。別れようって私が言い出したことだけど、そこからふたりで話し合って決めたことだけど、やはり寂しい想いは確かにあって、自分勝手さに辟易する。こうして色々と思い返してみると「楽しいこと」も沢山あった気がする。


  翌日。ドアを開け鍵を閉めてポストに合鍵を入れて、最後に思い出したのは、この人と付き合おうと決めた日のこと。

 

  その日私は仕事で大きなミスをしてお客様の邸宅まで謝りに行った。新山さんが誘ってくれてその日軽く飲みに行ったら「私、会社辞めようと思って」と打ち明けられる。家に着くと母と義父が居間でイチャイチャしている。私はやたらくさくさして松坂くんに「会いたい」と連絡をした。朝まで仕事だと思っていたら、今日はもう終わり家に帰ったという。コイツは本当いつもタイミング悪いなと思いながら私は家を出た。終電はもうない。電話がかかってきて
「どうした?タクシーで迎えに行こうか」
「いやいいよ。勿体ないし」
「あれ?外?どこいるの」
「武蔵小杉」
「ああ」
「じゃあ、迎えに来てくれるなら歩いてきて。私も歩いて荻窪向かうから」
「何言ってんの?いや普通にタク」まだ何か言ってたけど私は電話を電源ごと切った。
色んな事を思い出して私は泣きながら歩いた。少し嫌なことが重なって弱っていただけなんだけど、夜に人目も憚らず泣き歩くのは気持ち良かった。途中コンビニで缶ビールを買って飲みながら歩く。わがままで自分勝手でずるくって私は駄目なひとだなあと思った。3時頃、渋谷駅に着いた。脚が痛くなってきてもう歩くのも飽きてスマホの電源を入れて松阪くんに電話した。
「もしもし」
「もしもし」
「あのね」
「うん」
「今渋谷なんだけどどこにいる?」
「本当に歩いてたんだ」
「うん。そっちは」
「俺も歩いてた」
「そっか。今どこ?」
「え!まず本当に歩いていることを労って欲しい。なぜなら明日も俺は普通に仕事があるからね」
「今どこ?」
「ははは、いいやもう。あのねー、俺も今渋谷」
「え、どこどこ、どこらへんにいるの」私はスクランブル交差点にいた。キョロキョロしてもこんな時間でも人が多い。松坂くんは見当たらない。場所を告げてしばらくその場で待っていると松坂くんがやってきて、ヨッスと変に軽い挨拶をしてきた。
何も言わずに歩きだすと黙ってついてきてくれたので私は「ごめんね、嫌なことがあって」とポツリと言った。松坂くんは何も言わなかった。何も言わないで後ろからついてきて
「じゃあ、何か美味しいもの食べに行こっか」
「……うん」
「何食べたい?」
「…じゃあ、タコ焼き」
「タコ焼き?そんなんでいいの?じゃあ大阪まで行っちゃおうか」
その台詞で私は付き合おうと思ったのだ。
  少し長いけどこれは別に読まなくてもいいプロローグ。本当の物語は私が家を出ていってから始まる。このあと松阪くんから手紙が届くことになるのだけれど、それはまた別のお話し。

 

 

 

 

『LAST LOVE LETTER』に続く。

 

 

YJ文庫『駄目なひと#10』

「え、で、そのまましちゃったの?」と坦担味のカップスープに入った春雨をすすりながら新山さんが言った。私は休憩室でお昼を食べながら昨日の顛末を話していた。
「いや、してないです」
「ええ…」
「なんで引いてるんですか」
「よく我慢出来たね」
「我慢ていうか屋上ですからね。しかも知らない人のマンションの、屋上ですからね」
「だからいいんじゃん」
「わあ新山さんぽい発言」
「めちゃくちゃノリが悪い女だと思われたんじゃないそれ」
「んー。思われたと思います」
「え、そのまま帰ったの?ホテルとか、家とか」
「行きませんでした」
「うっわ、なにこの女。ないわー。腹立つわー」
「なんで男側の意見なんですか」
「向こうもよく引き下がったね」
「まあ、生理だと嘘つきましたから」
「ええ…」
「だから何で引いてるんですか」
「その言い訳だけはしないようにしてんのよ私。だってさ、んー、だってね、こっちが生理って言ってんのに引き下がらない男は私のこと大事にしてくれてない感じするから嫌だし、あっさり引き下がられても、そのテンションの下がりっぷりに、あ結局カラダ目的だったのねって思っちゃって嫌だし。どっちにしろ嫌な気分になるんだよね自分が。しかも嘘だし」
「あー、確かに。じゃあ新山さんだったらどうするんですか」
「まあ、そうだね。フェラしてあげる」
「何言ってんだよコイツ。職場でする話じゃねーよ」
「ツッコミだったら敬語使わなくていいルール採用してないから」
「すいません」
「つか、そんなベタな言い訳バレてると思うよ。結局ノリが悪い女だなっていう想いは変わらないけどね」
「いや別に、私するのに抵抗はないんですけど、何か今回のコレはしちゃったら次はないタイプのやつかなと思って」
「ああ」
「あ、次っていうのは」
「わかるわかる。関係性でしょ」
「そうです」
「んー。まあでも私なら記念にやっとくけどな」と豪快に笑ってカップスープを飲み干した。そしてジロッと部屋の隅を見て
「で、河野はどう思う?」
「ぶっ、ちょ、いやー、そのー、え、ヴんヴん。あ、あ、僕ですか。何が、何がですか」と急に話をフラれた河野くんが牛乳を少し吹きながらどもる。そう、休憩所には私と新山さんだけではなかったのだ。
「全然話聞いてなくて、すいません。何がですか」
「そんな訳ねーだろ。だから橘の判断どう思うって」
「そんなこと言われても僕聞いてないからあれなんですけど橘さんがそういう人だったのが驚きです」
「しっかり聞き耳たててんじゃねーか」
「驚きってなにが」
「あ、いや、その何ていうんですか、ビッチというか」
「ハハハハハ。いいぞ河野」
「ひどいー。何がビッチなの」
「だって、え、何か今までの会話聞いてたら、え、彼氏いるんですよね。駄目じゃないですか他の男と遊んだら」
「え?」
「え?」
「え!?僕が変なこと言ってるんですかこれ?」
「うん」
「うん」
「そっか。すいませんで否!言ってない!言ってないと思う!!しかも、しかもですよ、他にいい感じの男の人がいるんですか?」
「黒木屋の店長」
「え!?」
「ちょっと新山さん」
「マジすか!?橘さん糞ビッチじゃないですか」
「ハハハハハいいね河野いいね」
「橘さんゲテモノ喰いっすか?悪食っすか?黒木屋の店長って、あのローマの休日の真実の口みたいな人ですよね」
「ピンとこないけど悪口なのはわかる」
「なんか、なんかアレですよね、ズルいっすよね橘さん」
「ズルい?」
「なんか、全部自分が一番というか、自分がよけりゃいいっていうか、この話の中で一番可哀想なのは黒木屋の店長じゃないですか」
「なんで?松坂くんが?」
「はい。だってあんな見た目にハンディキャップかかえてる人が橘さんみたいな綺麗な人に相手してもらってたら有頂天というか、いや、もう付き合えるとか思ってますよきっと。それをね、それをですよ、何かサーっと横からsexyな男出てきて橘さんポーっとしちゃって、こんなのって、こんなのって、あんまりだああ」
「河野、熱どうした」
「何か共感することがあったんですかね過去に」
「ズルいっすねえズルいっすよねえ。だから女は信用出来ないっすよねえ」
「ハハハ、河野。分かってないねえ。ズルくていいんだよ。女の子はズルくていーのー」
「はあ?」
「男は馬鹿でいいの。馬鹿なままでいて女のズルさに気づかないか、気づいてないふりしてりゃいいのよ」
「なんすかそれ。ますますズルいじゃないですか」
「だから女はそのかわり、馬鹿な男を許すんだよ」
「何言ってるかわかんないっす」
「だから童貞なんだよ」
「酷い!セクハラつうかパワハラつうかモラハラつうか、何かしらハラスメントですコレ!」
河野くんは歓迎会で一皮剥けて、ずいぶんとぶっちゃけるようになった。まあ上司が泡を吹くくらい首を締めたらもう怖いものはないか。

 

  午後の業務が終わり更衣室で着替えてる時、里中がコソコソと話しかけてきた。
「橘さん、河野くんから聞いたんですけど林さんとどっかの屋上でしちゃったって本当ですか」
「いっやー、しちゃったっていうか、してはないっていうか、ええ、なになに」
「凄いですねえ!尊敬します」
「いやいや、そんなことよりそっちこそねえ、あの日ぷいっと消えちゃったじゃん、あのラガーマンみたいな人と」
「ああ、中軽米さん?」
「なかかるまい?あの人そんな変わった名字だったんだ」
「えー、あの人見かけ倒しでしたよー。なんか少し遊んだら女々しくて、女々しい男ほど身体鍛えてるっていうけど本当そうですよね」
「おお…」
「それよりか堪解由小路さんの方が丁寧だった」
「誰ソレ?何その名字。どんな漢字書くのそれ」
「あの目線が鋭い賢そうな人です」
「あの人そんな聞いたこともない名字だったんだ」
「でも私、林さんはいけなかったなー」
「そうなんだ」
「いやー、林さん先帰っちゃったじゃないですかあの日。あとでLINEのグループ作って連絡先交換しようと思ったら林さんだけ参加しなかったし」
「そうだね」
「で、私諦められなくてFacebookで探したんですよー」
「え、そうなの?」
「はい。普通に見つかりました。コメントしたのに連絡返ってこなくって。じゃあいいやーって」
「へ、へえ。相変わらずパワフルだね」
「いやー、橘さんには負けますよ。だって妻子持ちいっちゃうんだもん」
「へ?」
「凄いです。尊敬します」
「え?」

 

YJ文庫『駄目なひと#9』

  マンゴーとヨーグルトのドレッシングがかかったサラダをつまみながら私は「1位はペンギンですね」と言った。好きな動物は何ですかと聞かれたのでそう答えてから赤ワインをクッと一口あおり私は続けた。
「だってまずシンプルに見た目が可愛いですよね。あと歩き方。ぴょこぴょこしてて。で、そんな可愛いペンギンって実は過酷な生活してて、その意外性にも驚きなんです。私、あのー、映画、あの映画のタイトルなんだっけ、あるんですペンギンの映画。ドキュメントの。それを見て感動しちゃって。一番でっかい種類のペンギンの話なんですけど、ペンギンって夫婦になったら一生夫婦なんですよ。知ってました?凄くないですか?で、で、で、何が苛酷かって、子供を産もうと思ったら、一週間くらいかけて内陸部まで歩くんですよ。安全な。そこに色んなとこから集まってくるんです。で、夫婦になって卵産むんですけど、奥さんが産んだ卵を足の甲の上に乗せて温めているんですけど、え、奥さんて変ですか?お母さんですか?じゃあ奥さんにします。なんと卵を温めるのは旦那さんの仕事なんですよ。奥さんは旦那さんに卵を預けたらまた一週間かけて海までいくんです。ご飯食べに。で、で、で、卵の受け渡し方なんですけど、奥さんの足の甲から旦那さんの足の甲に受け渡すんですけど、失敗して転がっていっちゃうともう子供アウトなんです。外はマイナス40℃とかありますからね。極寒ですからね。すぐ凍って割れちゃうんですよ。苛酷じゃないですか?バラエティ番組でやるようなゲームで子供の一生かかってるんですよ。でね、でね、奥さんが海で魚食べてきて戻ってくるのにまた一週間かかるんですよ。奥さん海でオタリアに食べられちゃったりする場合もあって、オタリアってわかります?アシカのヤンキーみたいなやつです。で、そうなるともう旦那さんも子供も死亡です。苛酷じゃないですか?で、無事奥さん帰ってきたら今度は旦那さんが一週間かけて海まで行くんですけど、これ実に三週間くらいご飯食べてないですからね。雪だけ。その間は雪だけ食べてるんです。で、この旦那さんが海に向かう時に一番死んじゃうんですってペンギン。このあと卵から孵った子供たちにも、鳥が食べにきたりするんですって。ヤクザのペリカンみたいなやつがくるんですよ。本当苛酷。ペンギンに産まれなくて良かった」
「でも、一番好きなんでしょ?」
「はい。可愛いですからね」
「ははは、変なの。じゃあさ、今からペンギン見に行こうよ」
「今からですか。もう20時過ぎてますけど」

 

  カフェで雨宿りしてたのだけど林さんが「お腹減ってて」と言うので、私も「腹ペコです」と言うと「じゃあガッツリ、カレーでも食べましょう」と林さんは店を出て渋谷方面に歩き始めた。雨はもう止んでいて、かわりに格別な蒸し蒸しを残していった。
  しばらく歩くと、お洒落なカフェやセレクトショップが点在するエリアで、住宅街のただ中にそのカレー屋さんはあった。店名をあとで調べたらサンスクリット語で「不死の存在」を意味するその店は、ガッツリとカレーを食べるという雰囲気ではなくちゃんとレストランで、インド料理のレストランだった。コックも店員さんもみんなインド人ぽかった。もしかしたらバングラデシュ人かもしれないけれどインド人ぽく小顔だった。
  サラダやレバーの炒めもの、タンドリーチキンなどをつまみで頼み、最初はビールで乾杯。蒸し蒸しの中を歩いて来たのとスパイスの薫りで最高の一杯めになった。そのあとは赤ワイン。締めでカレーをひとつ頼みふたりでシェアした。こんなカレーの食べ方はじめてで、新鮮だった。変なこと言うけど、大人になったような気がした。
  林さんは口数は多くないから私ばかり喋っているのだけど、何故かそれが苦じゃない不思議な人だった。相槌を打つタイミングと無駄のない質問で気づいたら喋りっぱなしなんだけど、よく笑うからあまり上手とは言えない自分のお喋りが、お笑い芸人さんのように上手くなったような気にさせてくれる。そんな大人の雰囲気の林さんが急にイタズラっ子みたいな顔でペンギンを見に行こうなんていうからドキッとしてしまった。

  店を出て、通りでタクシーを拾うと品川までと告げ林さんは言った。
「なんかさ、橘さんで見た目は可愛らしい感じなのに、結構しっかりしてるよね」
「え、どういうことですか」
「話しててそう思ってさ。あのさ、今日なんか嫌なことあったんでしょう」
「え、なんでわかるんですか」
「そりゃあ、まあ舌打ちしてたから」
「あ、あー、そっか。そうでしたね」
「何があったのかは知らないけど、今は普通にしてるっていうか、そうそう。見た目は打たれ弱そうなのに実は結構タフみたいな。そういうのって格好いいよね」
「えー、うーん。そうですかねえ」
私はお酒を飲むと赤くなるどころか酔えば酔うほど白くなるのに頬は真っ赤だった。
「1位はペンギンなんでしょ。じゃあ2番目に好きな動物は」
「2番ですか。んー、猫かなあ。あ、やっぱ犬。犬ですね」
「それはなんで」
「やっぱ凄いなついてくれますからね。遊んでー!みたいな」
「猫って言いそうになってたけど」
「見た目は猫が好きなんですけどね。ホラやっぱり気まぐれでしょ猫って」
「わかる。俺も犬が好きかなー」と、コチラを向いて柴犬みたいな顔で笑った。


  品川駅前に着きタクシーを降りると、林さんがあまりにも自然に「はい」と腕をくいっとあげたので当たり前のように腕を組んでしまった。チラッと顔を見ると良くできました、と言わんばかりの満足気な顔をしていて、おかしいんだけど私は何だかこの人に褒められたくなっている自分を自覚した。黙って品川プリンスホテルの方に歩いていくので、ちょっとドキドキしたけど水族館はその先にある施設で、22時まで営業しているそうだ。
  中に入るとバーカウンターみたいのがあって、なんとお酒を飲みながら回れるらしい。そんなに種類はなくて全て瓶での提供だったからビールという気分ではなくて甘いのが良くてスミノフにした。
  館内は平日だし時間が遅かったからかあまり人がいなくて、ふたりだけしかいないみたいだった。私はペンギンを見に来たはずなのに円柱型の水槽がずらりと並んだ、くらげのエリアに釘付けになってしまった。ふわふわと漂っていて、それが紫や青や緑に桃色とライトアップされるのですごく幻想的だった。いつの間にか組んでいた腕はほどかれて今は手を繋いでいた。
  ペンギンのエリアではたくさん写真をとってしまった。酔ってるのか、はしゃぐ私にテンションを合わせてくれて林さんもはしゃいでいた。
  その水族館ではイルカショーもやっているのだけれど、これは流石に時間が遅くてもう今日はやっていなくて残念。まだあまり見ていないつもりだったのに水槽の中を通るトンネルのエスカレーターに乗っている時、館内に蛍の光が流れはじめた。
あ、もう終わりですかねえと振り返るとキスをされた。ちょっと、触れるようなキス。少し驚いて、一瞬見つめ合ったあともう一度。

  外に出ると、散歩しようかと言われ私は何も言わず繋いだ手をぎゅっとして答えた。手をぎゅっとするとぎゅっと返ってきてくすぐったくて照れた。特に喋るでもなく夜の街を歩く。ふわふわとした空気が流れていて、あんなに蒸し蒸しとしていた外気も夜になり冷えてふんわりと身体にまとわりつく感じで心地良い。なんだかたまらない気持ちになって喋ったらそのふわふわの空気を乱すような気がして嫌だったのだけれど、沈黙に堪えきれず
「くらげ凄かったですね」
「わかる。ペンギン見に行ったのにね」
「くらげって可愛いんですね。何か刺してくるイメージしかなかったですけど」
「俺も。あ、もう一回くらげ見よっか」
「いいですね。いつ行きますか。他のくらげ見れるところ探しておきます」
「いや、今」
と言って林さんは手をほどき、目の前のマンションに入っていった。
「え、ここ林さんの家ですか」
「違う。知らないマンション」
「え、何してんですか」と言いながらも私は後をついていく。
  エレベーターに乗り最上階の10階まで上がると、外階段で屋上の方へ。鍵のかかった柵があったけど、ひょいと林さんは乗り越えて私も手伝ってもらい後に続き屋上に出た。
「ほら、くらげ。満月だったね今日」
梅雨で空気中の水分が多くその輪郭をぼんやりとさせた満月は確かに先ほど見たくらげのようだった。
「まあ、くらげって海の月って書くし」
「そう、なんですね」
後ろから抱きしめられていたけど嫌ではなくて、振り向かせられてキスをして、また抱きしめられて。はは。私は恥ずかしくなるほど、濡れていた。

YJ文庫『駄目なひと#8』

  連休明けに旅行のお土産である韓国海苔を渡そうと松坂くんの働く黒木屋に飲みにいってから、仕事終わりに一杯飲んでから帰るようになり私はすっかり常連になってしまった。新山さんも松坂君を気に入って可愛がってくれた。5月末の休日には私と新山さんと松坂くん、それに松坂くんの友達である吉村くんの4人でイチゴ狩りにでかけるほどに仲が良くなっていた。


  6月。ここ数年、季節が暦とズレていると感じていたのだけれど今年はちゃんと梅雨入りし、本日も雨。温度も高くなってきて蒸し蒸しと湿気も凄く、前髪もくにゃりとしちゃったり不快な日が続いていた。めっきり会う回数を減らし月に2、3度しか会わないけれど一応私には彼氏がいて、相変わらずの的外れな言動に会う度心の距離は離れていった。そんな私の心境には全く気付かず「もっと会いたいな」とか甘えたような声を出すようになって、こういう時に仕事が忙しくてと言える社会人は便利だなとつくづく思う。
  私と松坂くんはハッキリ言って、タイ料理を食べに行った日が一番ふたりの距離は近かった。それから今まで何回か飲んだりしたけれどそういったモーションはかけてこなかった。しかしどんどん互いに気安くなっていっている。なんだか互いに、言い訳をするように『ただ楽しいだけの時間』を積み重ねている。それとも逆に言い訳をなくすためか。そんな風に感じる。

 

  女の子と呼ばれている季節は人生に於いてとっても短いのよ。これは母の口癖というか決まり文句だった。この言葉を恨めしそうに、吐き捨てるように私に投げつけたこともあれば、ひとりの女、人生の先輩として教えるように、諭すように手渡してくれたこともある。
  母は私を16歳で生んだ。私は実の父親というものをしらない。写真ですらみたことがない。私が物心ついたころにはとっくに離婚していて、母と祖父が取り返しのつかない喧嘩をするまで母の実家で暮らしていた。それから母と私が暮らした狭い1Kのアパートには月に何回か男の人がやってきた。毎回違う人だった。私はたくさんの男の人と遊んでもらった記憶がある。みんな結構優しくて虐待みたいなことはなかった。でも毎回違う男だった。2回目に突入する場合もあったけど極稀で、3回目4回目に到達できた人は片手で数えられるくらいだった。こんな風にいうと母が単なるあばずれに聞こえるけど決してそういう訳ではなくて、ずっとモテていた母は男を品定めしていた。その中でも私が一番懐いた且つ、経済力のあった運送会社を経営するずんぐりむっくりの禿げ上がった男と結婚した。私が10歳の時の話だった。中学生になり反抗期を迎えるとあんなに懐いていたのが嘘かのように毎日喧嘩になり、酷い言葉をたくさん言ってしまった。まあ喧嘩といっても私が一方的に理不尽な怒りをぶつけるだけなんだけど一度、何がきっかけでそこまでの大喧嘩になったのかは忘れてしまったけど、私は家出をした。定番の「本当の親じゃないのに父親面しないでよ」と言ったのに、優しく微笑むだけでその余裕の態度にますます腹がたって脛を思いっきり蹴飛ばして走って逃げた。夕飯前の時間だった。家出といってもそんなに遠くに行ける訳はなく、なんだか友達の家には親と喧嘩して家出したというのが恥ずかしくて行けなかった。私は多摩川を二時間ほどぷらぷらして寒くなってきたしお腹も減ったので早々に家に帰った。家の門扉のところに父が立っていて一瞬ひるんだけどなんか憎まれ口をたたきながら家に入ろうとすると突然頬をひっぱたかれた。人生で初めて男の人に、というか母にもひっぱたかれたことはなかった。痛いというかただびっくりした。私がびっくりしていると父が目の前でぽろぽろと泣き始め、それにも驚いたのだけど気づいたら私は「お父さんごめんなさい」と言っていた。それを聞いてますます泣いてしまい私は慌てた。ひとしきり泣いたあと父は「なにか美味しいものを食べに行こう。何食べたい」と聞いてきたので私は「タコ焼きかな」とぽそりと言うと、そのまま母も一緒に新幹線に乗って大阪までタコ焼きを食べにいった。そのまま一泊し、次の日は休めばいいと言われ学校を休んでUSJで遊んで帰った。父は美味しいものを食べれば人はだいたい幸せという考えの持ち主だった。私は父が大好きだった。本当に好きだった。
  父は私が二十歳の時に肺癌が見つかり、手術して一度は治ったけれど再発して二年前私が大学を卒業、就職して少ししたくらいで死んでしまった。初任給でタコ焼きを食べさせてあげたかった。

 

  仕事が終わり更衣室でスマホを見ると、母から話があるから早めに帰ってきてとLINEがあり真っすぐ帰ると知らない浅黒い30半ばくらいの男がいて「今度この人と再婚することにしたから」と言われた。男の人は不自然なほど白い前歯をニカッとみせて「よろしく」と短くいった。信じられなかった。本当に嫌だった。その男が嫌というか母が嫌だった。そりゃまだ母は40歳だし再婚はいずれするかもしれないとはおもっていたけど早すぎる。しかもこの一軒家だって父が買ったものだし、なんて薄情な人なんだと私は思った。母は続けざまに「だから優雨ちゃんもね、もう立派な大人だし、働いてるし、この家出てもらおうかなって。ひとり暮らししたらどうかなって思うんだけど」と言った。信じられなかった。母が発する濃厚な女の気配が気持ち悪かった。横で男がまた不気味なほど歯並びが良いスマイルで今度は「よろしこ」といった。少し立ち眩みをして、その場に一秒もいたくないと思った私は息を大きく吸い込み「おめでとう」と余裕の流し目で祝い予定があるからと家を出た。
  たった5分程の出来事だったけど、ストレスが酷かった。外は蒸し蒸しするし、もうこのストレスは経験上洋服を衝動買いして散財しなければ収まらない類のやつだった。私は電車に乗り込み代官山で降りると馴染みの店をいくつか巡ったけれど、こんなになんでも買ってしまいそうな精神状態なのに琴線にふれるものがなく、こりゃ駄目だ一旦落ち着こうとカフェに入った。オープンテラスもあったけど店内は冷房が利いていて涼しいので窓際の席に座った。アッサムで淹れた冷たいミルクティーを飲んでいると次第に落ち着いてきて、落ち着いてくると、あれ散財してる場合じゃないかと思い直した。だって実家を出ていかないといけないということは一人暮らしをするということでお金がかかる。というかなんで家を出てかなきゃいけないんだろう。本当にあんな胡散臭い男と結婚するんだろうか。お父さんと全然違うじゃないと思うと、父のことを思い出して悲しくなってしまった。誰かにすごく会いたかった。松坂くんに連絡をしても既読がつかない。そりゃそうだ仕事中だもん。私は今、会いたかった。もう彼氏でいいかと思い電話すると割とすぐにでて「今なにしてるの会いたいんだけど」と言うと、女の声で「あんた誰」と言われ、間違い電話しちゃったのかなと画面を見るとしっかり彼氏の名前が表示されていて、なんだこれと思い耳をすましていると背後で「ちょ、お前なにして」と焦った彼氏の声が聞こえてきたので電話を切った。すぐ何度も電話やLINEの通知が来てウザったいので電源を切った。ふざけんなと思った。あの男浮気してやがる。なんだよ、もうどうでもいいけど今別れたら浮気されて捨てられた女みたいになるじゃんか。なんでそんな感じにならなければいけないのか。ああ腹立つ。腹が立つ。腹が立ったらお腹が減った。よし何か美味しいものを食べにいこう。その時パラパラと窓の外では雨が降り始めたと思ったらすぐにザアザアに。わあ。ツイてねえ。通り雨っぽいからもう少しここで時間つぶすか。あ、今のうちに近場で美味しい店探すか、あ、でも今スマホの電源入れたら面倒臭いか。ああ腹が立つ。
「はは、女の子が舌打ちしてるのはじめて見た。いいね」
「え、あ、すいません。私舌打ちしてましたか」
急に後ろから話かけられて驚きつつも、私今無意識で舌打ちをしていたのかと恥ずかしくなった。「いやぁ参ったよ雨。見覚えのある顔だったから雨宿りに入ってきちゃいました」というので振り返るとそこには、いつかの飲み会で圧倒的に素敵だった林さんが立っていた。

YJ文庫『駄目なひと#7』

  西荻窪は駅を出るとすぐに飲み屋が連なる通りがあって、そんな通りが連なっていて、完全に飲み屋街だった。
  まだ宵には少し早いのだけど賑わっていて、どの店も通りに面するドアが開け放たれている。なんなら席も路上にある店や、お客さんが飛び出ちゃっていたり皆陽気で楽しそう。やはりおじさんが多いのだけれど歳を食ったおじさん達は何だかみんな少し洒落た雰囲気があるというか、品があるというか、そんな雰囲気があって、赤羽の感じや麻布・六本木の感じともまた違う、そういう場所を経た感じのおじさん達がお酒を嗜んでいた。
  改札を出て少しすると自転車に乗った松坂くんがやって来て、駅前に停めてこっちこっちと歩きだした。細い道に飲み屋が対面している路地をスススと進んでいく。昔ながらの一軒家を改造したんだろうなあという感じの店があり、そこは、男性の容姿等を褒め称える形容詞に、住居において主に食事をする場の呼称を足した変わった名前の店だった。冷蔵庫が店外に設置してあるような狭い店で、一階にキッチンがありカウンターがぐるり。カウンターはもう埋まっていてお客さんに椅子を引いてもらったりしながら壁とお客さんの間を通ると、奥に人ひとり通れる細い階段があり、その狭い階段には地域の雑誌みたいのとか常連さんが置いてったのか小劇団とかのフライヤーなどが置かれている棚があって先ほど見た壊滅的なつまらなさのお芝居のものもあった。階段を登りきると沓抜があり、50円で出来るガチャガチャが設置してあって、それをひくと当たりはシンハービールが当たるよ!とか書いてあって、あとで引いてみたいなあと思った。
2階は座敷席でテーブルでいうと4席ほどで、2階もお客さんで賑わっていて私たちは奥の窓際の席に案内された。ここはタイ料理苦手な人でも食べれるような日本人向けに改良されたタイ料理なんだよ、とか言いながら慣れた感じで料理を注文していく。飲み物はどうすると聞かれたので、せっかくだからシンハービールを頼んだ。
  5月の割には今日が暑いのか、店内が賑わっているからなのか、私は少し汗ばんでいて、濃いめの味付けの料理にさっぱりとした味が薄めのシンハービールはよく合った。リーズナブルなのに料理はとてつもなく美味しかった。自分で好きな調味料を葉っぱに巻いて食べるお通しから、パクチーのサラダや生春巻やスープに海老を炒めたやつ。辛くて甘いタイ料理が確かにしっかり日本人向けにアレンジしてある。どこか懐かしい感じの味がする。豚の塩で焼いたやつ(名前が難しくて覚えられなかった)には笹の葉で包んたもち米がついてきてそれを手で食べるんだけど、ベタベタになった手に割り箸の袋がついてしまって何だか恥ずかしく、松坂くんを見るとおしぼりのビニールが指にくっついていてお互い笑った。ごちゃごちゃとした玩具みたいなアジアンテイストの小物だとか、照明のデザインや色、座布団の刺繍の感じ、天井に吊られた扇風機だとか窓の障子だとか。それらすべてのバランスが良くてとても素敵な店で、こんなとこよく知ってるねと言うと「おれたべるのすきなんだよ」と全部平仮名だろうと思われる発音で小学生みたいな回答が返ってきた。
  最初は今日見たお芝居の愚痴からはじまって、松坂くんの職場の愚痴、セクハラ課長の黙示録、休日なにしてるのか、稲葉さんというおじさんの話などとりとめもないお喋りは続いた。松坂くんは連休は今日だけ休みであとは普通に仕事らしいので今日はここしかないみたいなタイミングの良さだった。
  美味しい料理にはお酒も進む。松坂くんはすぐに顔に出るタイプなのか一本飲んだ時から真っ赤だった。時計を見ると21時を過ぎていて、あっという間に時間が過ぎていた。そろそろ出ようとなったのでガチャガチャをしようと思って財布をのぞくと丁度50円玉が一枚あり回す。なんとシンハービールが当たり、じゃあもう一杯飲んでいこうとなった。松坂くんもガチャガチャを回すと青い呪いの人形にしか見えない不気味な人形が当たっていた。もう一度回すと今度は色違いで赤い呪いの人形みたいのが当たっていた。すると後に引けなくなったのかわざわざ下まで降りて両替してもらい挑戦。白、黒、オレンジと呪いの人形が出続けて、赤がダブった時に諦めてそれをくれた。ビールをふたりでわけて飲み、私がトイレに行っている間に会計を済ましてくれた。こんなにいいお店を教えてもらったのに悪いよ、と財布を出すと、いやこちらこそ楽しい休日だったわと言って奢ってくれた。お釣りで50円玉が出て、最後にもう一回とガチャガチャを回すとシンハービールが当たった。顔を見合わせてタイミングの悪さに笑う。悔しそうな顔をする松坂くんに「また来ようよ」と私は言った。
  店を出るとまあまあ酔っていることを自覚して、酔うとアイスが食べたくなって「ハーゲンダッツ食べたい」と言うと「美味しいアイス屋さんあるよ」と駅に向かって歩き始めた。自転車を牽きながら住宅街を歩いていると、こんなところにアイス屋が、という場所に洒落たアイス屋があり、22時ちょっと前だというのに3組くらい並んでいた。お店は22時までということで、私たちが最後の客だった。売り切れたのか、あまり種類はなくて私はバニラとチョコレートにナッツが入ったやつのダブルを頼んだ。外のベンチに座って食べる。美味しかった。こんな美味しいアイスを食べたのははじめてだった。そしてそれ以上に、私は、楽しかった。


  自転車に二人乗りなんていつぶりだろうか。違反だ。しかも飲酒運転だ。違反だ。ごめんなさい。私はすまし顔で横向きに座る。人があまり歩いていない住宅街にゲラゲラと笑う声ふたつ。空は快晴で月がとても綺麗な半月で、いや満月じゃないんかい。もしくは三日月ならまだ格好つくけど、半月って。そんなことでも何だか可笑しくてずっと笑っていた。
  緩やかにスピードが落ちていき自転車が止まる。そこは築年数が結構ありそうな2階建てのアパートの前だった。経年を誤魔化す為に後から塗ったのだろうか、壁がエメラルドグリーンで『エメラルドグリーン』という単語久々に思い浮かべたな、とぼんやり思った。
「ここ俺ん家」
「そうなんだ。何かイメージ通りダサい建物に住んでるんだね」
「うるさいよ」
「駅通りすぎちゃった感じ?」
「…少し寄ってく?」
何かカチッとスイッチが入ったような音が聞こえた気がする。前を向いたままの松坂くんの背中から緊張しているのがわかった。
正直に言う。正直に言うとその時の私は部屋に上がっても良かった。何だかそんな気分だった。「…ごめん。今日は帰る」と返事をすると、松坂くんは少し沈黙したあと元気よく「あいよ。このまま荻窪駅まで送るわ」と前を向いたまま言い再び自転車を漕ぎはじめた。
  なぜ断ったか。私は明日から韓国旅行で朝が早いのである。わあ。なんで昨日のうちに支度しておかなかったのか。わあ。タイミングが悪いなあ。わあ、わあ。と横向きに揃えた脚を気付かれない様にバタバタすると、バランスを崩した松坂くんが焦っていて私はまた少し声をだして笑った。