YJ文庫『駄目なひと#7』

  西荻窪は駅を出るとすぐに飲み屋が連なる通りがあって、そんな通りが連なっていて、完全に飲み屋街だった。
  まだ宵には少し早いのだけど賑わっていて、どの店も通りに面するドアが開け放たれている。なんなら席も路上にある店や、お客さんが飛び出ちゃっていたり皆陽気で楽しそう。やはりおじさんが多いのだけれど歳を食ったおじさん達は何だかみんな少し洒落た雰囲気があるというか、品があるというか、そんな雰囲気があって、赤羽の感じや麻布・六本木の感じともまた違う、そういう場所を経た感じのおじさん達がお酒を嗜んでいた。
  改札を出て少しすると自転車に乗った松坂くんがやって来て、駅前に停めてこっちこっちと歩きだした。細い道に飲み屋が対面している路地をスススと進んでいく。昔ながらの一軒家を改造したんだろうなあという感じの店があり、そこは、男性の容姿等を褒め称える形容詞に、住居において主に食事をする場の呼称を足した変わった名前の店だった。冷蔵庫が店外に設置してあるような狭い店で、一階にキッチンがありカウンターがぐるり。カウンターはもう埋まっていてお客さんに椅子を引いてもらったりしながら壁とお客さんの間を通ると、奥に人ひとり通れる細い階段があり、その狭い階段には地域の雑誌みたいのとか常連さんが置いてったのか小劇団とかのフライヤーなどが置かれている棚があって先ほど見た壊滅的なつまらなさのお芝居のものもあった。階段を登りきると沓抜があり、50円で出来るガチャガチャが設置してあって、それをひくと当たりはシンハービールが当たるよ!とか書いてあって、あとで引いてみたいなあと思った。
2階は座敷席でテーブルでいうと4席ほどで、2階もお客さんで賑わっていて私たちは奥の窓際の席に案内された。ここはタイ料理苦手な人でも食べれるような日本人向けに改良されたタイ料理なんだよ、とか言いながら慣れた感じで料理を注文していく。飲み物はどうすると聞かれたので、せっかくだからシンハービールを頼んだ。
  5月の割には今日が暑いのか、店内が賑わっているからなのか、私は少し汗ばんでいて、濃いめの味付けの料理にさっぱりとした味が薄めのシンハービールはよく合った。リーズナブルなのに料理はとてつもなく美味しかった。自分で好きな調味料を葉っぱに巻いて食べるお通しから、パクチーのサラダや生春巻やスープに海老を炒めたやつ。辛くて甘いタイ料理が確かにしっかり日本人向けにアレンジしてある。どこか懐かしい感じの味がする。豚の塩で焼いたやつ(名前が難しくて覚えられなかった)には笹の葉で包んたもち米がついてきてそれを手で食べるんだけど、ベタベタになった手に割り箸の袋がついてしまって何だか恥ずかしく、松坂くんを見るとおしぼりのビニールが指にくっついていてお互い笑った。ごちゃごちゃとした玩具みたいなアジアンテイストの小物だとか、照明のデザインや色、座布団の刺繍の感じ、天井に吊られた扇風機だとか窓の障子だとか。それらすべてのバランスが良くてとても素敵な店で、こんなとこよく知ってるねと言うと「おれたべるのすきなんだよ」と全部平仮名だろうと思われる発音で小学生みたいな回答が返ってきた。
  最初は今日見たお芝居の愚痴からはじまって、松坂くんの職場の愚痴、セクハラ課長の黙示録、休日なにしてるのか、稲葉さんというおじさんの話などとりとめもないお喋りは続いた。松坂くんは連休は今日だけ休みであとは普通に仕事らしいので今日はここしかないみたいなタイミングの良さだった。
  美味しい料理にはお酒も進む。松坂くんはすぐに顔に出るタイプなのか一本飲んだ時から真っ赤だった。時計を見ると21時を過ぎていて、あっという間に時間が過ぎていた。そろそろ出ようとなったのでガチャガチャをしようと思って財布をのぞくと丁度50円玉が一枚あり回す。なんとシンハービールが当たり、じゃあもう一杯飲んでいこうとなった。松坂くんもガチャガチャを回すと青い呪いの人形にしか見えない不気味な人形が当たっていた。もう一度回すと今度は色違いで赤い呪いの人形みたいのが当たっていた。すると後に引けなくなったのかわざわざ下まで降りて両替してもらい挑戦。白、黒、オレンジと呪いの人形が出続けて、赤がダブった時に諦めてそれをくれた。ビールをふたりでわけて飲み、私がトイレに行っている間に会計を済ましてくれた。こんなにいいお店を教えてもらったのに悪いよ、と財布を出すと、いやこちらこそ楽しい休日だったわと言って奢ってくれた。お釣りで50円玉が出て、最後にもう一回とガチャガチャを回すとシンハービールが当たった。顔を見合わせてタイミングの悪さに笑う。悔しそうな顔をする松坂くんに「また来ようよ」と私は言った。
  店を出るとまあまあ酔っていることを自覚して、酔うとアイスが食べたくなって「ハーゲンダッツ食べたい」と言うと「美味しいアイス屋さんあるよ」と駅に向かって歩き始めた。自転車を牽きながら住宅街を歩いていると、こんなところにアイス屋が、という場所に洒落たアイス屋があり、22時ちょっと前だというのに3組くらい並んでいた。お店は22時までということで、私たちが最後の客だった。売り切れたのか、あまり種類はなくて私はバニラとチョコレートにナッツが入ったやつのダブルを頼んだ。外のベンチに座って食べる。美味しかった。こんな美味しいアイスを食べたのははじめてだった。そしてそれ以上に、私は、楽しかった。


  自転車に二人乗りなんていつぶりだろうか。違反だ。しかも飲酒運転だ。違反だ。ごめんなさい。私はすまし顔で横向きに座る。人があまり歩いていない住宅街にゲラゲラと笑う声ふたつ。空は快晴で月がとても綺麗な半月で、いや満月じゃないんかい。もしくは三日月ならまだ格好つくけど、半月って。そんなことでも何だか可笑しくてずっと笑っていた。
  緩やかにスピードが落ちていき自転車が止まる。そこは築年数が結構ありそうな2階建てのアパートの前だった。経年を誤魔化す為に後から塗ったのだろうか、壁がエメラルドグリーンで『エメラルドグリーン』という単語久々に思い浮かべたな、とぼんやり思った。
「ここ俺ん家」
「そうなんだ。何かイメージ通りダサい建物に住んでるんだね」
「うるさいよ」
「駅通りすぎちゃった感じ?」
「…少し寄ってく?」
何かカチッとスイッチが入ったような音が聞こえた気がする。前を向いたままの松坂くんの背中から緊張しているのがわかった。
正直に言う。正直に言うとその時の私は部屋に上がっても良かった。何だかそんな気分だった。「…ごめん。今日は帰る」と返事をすると、松坂くんは少し沈黙したあと元気よく「あいよ。このまま荻窪駅まで送るわ」と前を向いたまま言い再び自転車を漕ぎはじめた。
  なぜ断ったか。私は明日から韓国旅行で朝が早いのである。わあ。なんで昨日のうちに支度しておかなかったのか。わあ。タイミングが悪いなあ。わあ、わあ。と横向きに揃えた脚を気付かれない様にバタバタすると、バランスを崩した松坂くんが焦っていて私はまた少し声をだして笑った。