YJ文庫『駄目なひと#9』

  マンゴーとヨーグルトのドレッシングがかかったサラダをつまみながら私は「1位はペンギンですね」と言った。好きな動物は何ですかと聞かれたのでそう答えてから赤ワインをクッと一口あおり私は続けた。
「だってまずシンプルに見た目が可愛いですよね。あと歩き方。ぴょこぴょこしてて。で、そんな可愛いペンギンって実は過酷な生活してて、その意外性にも驚きなんです。私、あのー、映画、あの映画のタイトルなんだっけ、あるんですペンギンの映画。ドキュメントの。それを見て感動しちゃって。一番でっかい種類のペンギンの話なんですけど、ペンギンって夫婦になったら一生夫婦なんですよ。知ってました?凄くないですか?で、で、で、何が苛酷かって、子供を産もうと思ったら、一週間くらいかけて内陸部まで歩くんですよ。安全な。そこに色んなとこから集まってくるんです。で、夫婦になって卵産むんですけど、奥さんが産んだ卵を足の甲の上に乗せて温めているんですけど、え、奥さんて変ですか?お母さんですか?じゃあ奥さんにします。なんと卵を温めるのは旦那さんの仕事なんですよ。奥さんは旦那さんに卵を預けたらまた一週間かけて海までいくんです。ご飯食べに。で、で、で、卵の受け渡し方なんですけど、奥さんの足の甲から旦那さんの足の甲に受け渡すんですけど、失敗して転がっていっちゃうともう子供アウトなんです。外はマイナス40℃とかありますからね。極寒ですからね。すぐ凍って割れちゃうんですよ。苛酷じゃないですか?バラエティ番組でやるようなゲームで子供の一生かかってるんですよ。でね、でね、奥さんが海で魚食べてきて戻ってくるのにまた一週間かかるんですよ。奥さん海でオタリアに食べられちゃったりする場合もあって、オタリアってわかります?アシカのヤンキーみたいなやつです。で、そうなるともう旦那さんも子供も死亡です。苛酷じゃないですか?で、無事奥さん帰ってきたら今度は旦那さんが一週間かけて海まで行くんですけど、これ実に三週間くらいご飯食べてないですからね。雪だけ。その間は雪だけ食べてるんです。で、この旦那さんが海に向かう時に一番死んじゃうんですってペンギン。このあと卵から孵った子供たちにも、鳥が食べにきたりするんですって。ヤクザのペリカンみたいなやつがくるんですよ。本当苛酷。ペンギンに産まれなくて良かった」
「でも、一番好きなんでしょ?」
「はい。可愛いですからね」
「ははは、変なの。じゃあさ、今からペンギン見に行こうよ」
「今からですか。もう20時過ぎてますけど」

 

  カフェで雨宿りしてたのだけど林さんが「お腹減ってて」と言うので、私も「腹ペコです」と言うと「じゃあガッツリ、カレーでも食べましょう」と林さんは店を出て渋谷方面に歩き始めた。雨はもう止んでいて、かわりに格別な蒸し蒸しを残していった。
  しばらく歩くと、お洒落なカフェやセレクトショップが点在するエリアで、住宅街のただ中にそのカレー屋さんはあった。店名をあとで調べたらサンスクリット語で「不死の存在」を意味するその店は、ガッツリとカレーを食べるという雰囲気ではなくちゃんとレストランで、インド料理のレストランだった。コックも店員さんもみんなインド人ぽかった。もしかしたらバングラデシュ人かもしれないけれどインド人ぽく小顔だった。
  サラダやレバーの炒めもの、タンドリーチキンなどをつまみで頼み、最初はビールで乾杯。蒸し蒸しの中を歩いて来たのとスパイスの薫りで最高の一杯めになった。そのあとは赤ワイン。締めでカレーをひとつ頼みふたりでシェアした。こんなカレーの食べ方はじめてで、新鮮だった。変なこと言うけど、大人になったような気がした。
  林さんは口数は多くないから私ばかり喋っているのだけど、何故かそれが苦じゃない不思議な人だった。相槌を打つタイミングと無駄のない質問で気づいたら喋りっぱなしなんだけど、よく笑うからあまり上手とは言えない自分のお喋りが、お笑い芸人さんのように上手くなったような気にさせてくれる。そんな大人の雰囲気の林さんが急にイタズラっ子みたいな顔でペンギンを見に行こうなんていうからドキッとしてしまった。

  店を出て、通りでタクシーを拾うと品川までと告げ林さんは言った。
「なんかさ、橘さんで見た目は可愛らしい感じなのに、結構しっかりしてるよね」
「え、どういうことですか」
「話しててそう思ってさ。あのさ、今日なんか嫌なことあったんでしょう」
「え、なんでわかるんですか」
「そりゃあ、まあ舌打ちしてたから」
「あ、あー、そっか。そうでしたね」
「何があったのかは知らないけど、今は普通にしてるっていうか、そうそう。見た目は打たれ弱そうなのに実は結構タフみたいな。そういうのって格好いいよね」
「えー、うーん。そうですかねえ」
私はお酒を飲むと赤くなるどころか酔えば酔うほど白くなるのに頬は真っ赤だった。
「1位はペンギンなんでしょ。じゃあ2番目に好きな動物は」
「2番ですか。んー、猫かなあ。あ、やっぱ犬。犬ですね」
「それはなんで」
「やっぱ凄いなついてくれますからね。遊んでー!みたいな」
「猫って言いそうになってたけど」
「見た目は猫が好きなんですけどね。ホラやっぱり気まぐれでしょ猫って」
「わかる。俺も犬が好きかなー」と、コチラを向いて柴犬みたいな顔で笑った。


  品川駅前に着きタクシーを降りると、林さんがあまりにも自然に「はい」と腕をくいっとあげたので当たり前のように腕を組んでしまった。チラッと顔を見ると良くできました、と言わんばかりの満足気な顔をしていて、おかしいんだけど私は何だかこの人に褒められたくなっている自分を自覚した。黙って品川プリンスホテルの方に歩いていくので、ちょっとドキドキしたけど水族館はその先にある施設で、22時まで営業しているそうだ。
  中に入るとバーカウンターみたいのがあって、なんとお酒を飲みながら回れるらしい。そんなに種類はなくて全て瓶での提供だったからビールという気分ではなくて甘いのが良くてスミノフにした。
  館内は平日だし時間が遅かったからかあまり人がいなくて、ふたりだけしかいないみたいだった。私はペンギンを見に来たはずなのに円柱型の水槽がずらりと並んだ、くらげのエリアに釘付けになってしまった。ふわふわと漂っていて、それが紫や青や緑に桃色とライトアップされるのですごく幻想的だった。いつの間にか組んでいた腕はほどかれて今は手を繋いでいた。
  ペンギンのエリアではたくさん写真をとってしまった。酔ってるのか、はしゃぐ私にテンションを合わせてくれて林さんもはしゃいでいた。
  その水族館ではイルカショーもやっているのだけれど、これは流石に時間が遅くてもう今日はやっていなくて残念。まだあまり見ていないつもりだったのに水槽の中を通るトンネルのエスカレーターに乗っている時、館内に蛍の光が流れはじめた。
あ、もう終わりですかねえと振り返るとキスをされた。ちょっと、触れるようなキス。少し驚いて、一瞬見つめ合ったあともう一度。

  外に出ると、散歩しようかと言われ私は何も言わず繋いだ手をぎゅっとして答えた。手をぎゅっとするとぎゅっと返ってきてくすぐったくて照れた。特に喋るでもなく夜の街を歩く。ふわふわとした空気が流れていて、あんなに蒸し蒸しとしていた外気も夜になり冷えてふんわりと身体にまとわりつく感じで心地良い。なんだかたまらない気持ちになって喋ったらそのふわふわの空気を乱すような気がして嫌だったのだけれど、沈黙に堪えきれず
「くらげ凄かったですね」
「わかる。ペンギン見に行ったのにね」
「くらげって可愛いんですね。何か刺してくるイメージしかなかったですけど」
「俺も。あ、もう一回くらげ見よっか」
「いいですね。いつ行きますか。他のくらげ見れるところ探しておきます」
「いや、今」
と言って林さんは手をほどき、目の前のマンションに入っていった。
「え、ここ林さんの家ですか」
「違う。知らないマンション」
「え、何してんですか」と言いながらも私は後をついていく。
  エレベーターに乗り最上階の10階まで上がると、外階段で屋上の方へ。鍵のかかった柵があったけど、ひょいと林さんは乗り越えて私も手伝ってもらい後に続き屋上に出た。
「ほら、くらげ。満月だったね今日」
梅雨で空気中の水分が多くその輪郭をぼんやりとさせた満月は確かに先ほど見たくらげのようだった。
「まあ、くらげって海の月って書くし」
「そう、なんですね」
後ろから抱きしめられていたけど嫌ではなくて、振り向かせられてキスをして、また抱きしめられて。はは。私は恥ずかしくなるほど、濡れていた。