YJ文庫『駄目なひと-完-』

  どんなに楽しいことだって終わりがあるのは「楽しいこと」を楽しんでいるからなんだ。と、その時の私は唐突に理解した。

  薄ぼんやりとした満月が私たちを照らすロマンチックな舞台装置。酔った時の甘い息やその体温。勢いや背徳感。移動距離と出来事の多さからくる満足度と罪悪感。心地よい慣れた大人の触り方。そういった数々の林さんの手練手管は楽しかった。楽しいことを提供され、私はその楽しいことを楽しんでいた。
  だけど、それには終わりがあることを私は知っていて、いつものことの繰り返しだと思うと急速に気持ちが萎えた。だからバレバレの嘘をついて私はその場を凌いだのだ。
  里中曰く林さんは既婚者で、危うくペロッといかれるとこだった。あとで覗いたFacebookには子供や奥さんの写真で溢れていて、幸せそうで、いいパパだった。そんなもんだよなと思う。林さんは手頃な楽しみを探す人だったんだろう。自分が、心のどこかで終わりのない楽しみを探していて良かったと思った。


  松阪くんと遊んでいても何も楽しいことは起きない。そう、特に楽しいことは起きない。でも、そんな何でもない日常を「楽しむこと」にしたから終わりがない。


  互いに一人前のお弁当を作ってきて一緒に食べた新宿御苑のピクニック。園内の飲酒は禁止なんだけど、私は赤ワインを持ち込んでプラスチックのグラスで乾杯をした。松阪くんは元来奥手なのか一回家にいくのを断ったからなのか、周りはカップルだらけなのに膝枕はおろか手を繋いでこようともしなかった。私はとうとう拗ねて大温室では不満な顔を存分にさらし何なのその顔と言って笑う松阪くんに腹が立った。

  花火を観に行った時、私は浴衣を着ていったら松阪君も浴衣を着ていて、丁度散髪したてだったのか大分短くなっていて西郷隆盛感が凄くって、そうなると、どうしても犬を連れて歩いて欲しくなりペットショップに寄ってたら花火がはじまってしまい笑った。

  ある時、デートに遅刻した松阪くんを苛々しながら喫茶店で待っていると、隣の席のカップルの会話が聞こえてきて、一番好きな動物は?理由は?じゃあ二番目は?とどこかで聞いたことのある会話をしていた。男によるとそれは心理テストで、実は動物はどうでもよくて肝要なのは理由の方で、一番目にあげた動物はなりたい自分の理想像だという。二番目は好きなタイプらしい。そのカップルの女の子は一位は猫で目が大きくて可愛いかららしいので、他人から「目が大きくて可愛いね」とか「目ヂカラあるね」とか言われると嬉しいらしい。二位の動物が亀で、ゆっくりしか歩けないの可愛いとのこと。歩幅を合わせ一緒にゆっくり歩く人が好きなんだろう。別にだから何というわけじゃないけれど、相手に合わせてこういう言動をすれば心理的に気安くなるということだ。そして、これ林さんにやられてたなと思って笑った。こんな子供騙しのテクニックを使う林さんはダセいけど、それにコロッといきかけた私もダセー。松坂くんが遅れてやってきてアイスコーヒーを頼む。一番好きな動物と理由を聞くと「ジェレヌクかな」とか知らない動物を言ってきたので少しイラッとしながら画像検索。「鹿とかインパラみたいなやつなんだけどさ、とにかく顔が小さいの。スタイルも凄くてさ10等身くらいあるのよ」と続けたので、そういう風になりたいんだと思い「松坂くんも顔小さいよね」というと「4頭身半しかないから」と大きい声を出してきたので笑った。

  ギターを買おうと思うから一緒に買いに来てくれない?と誘われ御茶ノ水に行った時も私は興味がなかったから何か楽しいことを探したら、明治大学の地下で拷問器具を無料で展覧しているというので行くとほんの小さなスペースのみで他はほとんど日本の歴史の収集物が展示されていた。地域のボランティアなのか枯れたお爺さんが座っていてやたらと説明してくれて、調子に乗れば乗るほど喋るので楽しかった。隣街の古本とカレーの町である神保町まで歩いていって、給食のカレーみたいな下品な感じのカレーを食べた。松阪くんは揚げシウマイをトッピングしていて、カツとかコロッケならわかるけど揚げシウマイって何それと思っていると「俺はもっぱら揚げシウマイ」とCMの決め台詞みたいな事をいった。食べ終わると「や、ギターを買いに来たんだよ」と言われ歩いて戻るのでそのまま御茶ノ水を通りすぎて秋葉原まで歩いてやった。途中で全然気づいていたのに、秋葉原についてからツッコミをいれてきたので笑う。神田川沿いに歩いていたら赤茶けたレンガ造りのお洒落な建物があり「あんなとこに住んでみたいな」とか言っていて近付いて見るとただの公衆トイレでふたりして声を出して笑った。

  流行りの展示があり美術館にデートに行った時はふたりとも絵のことなんてちっとも分からないかど、どちらがより専門家みたいな事を言えるか競いあって知ったかぶりのオンパレード評論家気取りのウザイ発言で笑っていたら周りから白い目を向けられた。

  はじめて松阪くん家に泊まり向かえた朝。近くに美味しいモーニングを出す店があるよと言われたのに電車に乗った時は日本語を知らないのかなと思った。魔女の宅急便に出てくるパン屋さんのおかみさんのオソノさんみたいな店主のスープとパンのモーニングは確かに美味しかった。帰りは歩こうと二駅分歩いた。途中あった公園に今どきにしては珍しく、球体のアスレチックがぐるぐる回るやつがあって、私がそれに飛び乗るとヨッシャと気合いを入れて松阪くんがぐるぐる回してきた。キャーキャー騒いでいると調子に乗ってちょっと怖いくらいに加速させて来て、あ、ちょっとコイツと思っていたら、自分で勝手にやったくせに目が回って松坂くんは少し離れたとこで吐いていた。近年で一番笑ったと思う。

 


  ただ、ぶらぶらと散歩をするように日々は流れていきます。楽しく。笑って。そして松坂くんと同棲をはじめてもうすぐ2年になる。
なぜ私がこんなに色々と思い出しているかというと私は明日、この部屋を出ていくからだ。
  なんでもない日々を楽しむことにしたからその楽しみには終わりがない。それはそうなんだけど、なんて傲慢なんだろう。そんな気持ちも日々摩耗して当たり前に「楽しむこと」が出来なくなってしまった。私は「楽しいこと」も欲しくなってしまった。別れようって私が言い出したことだけど、そこからふたりで話し合って決めたことだけど、やはり寂しい想いは確かにあって、自分勝手さに辟易する。こうして色々と思い返してみると「楽しいこと」も沢山あった気がする。


  翌日。ドアを開け鍵を閉めてポストに合鍵を入れて、最後に思い出したのは、この人と付き合おうと決めた日のこと。

 

  その日私は仕事で大きなミスをしてお客様の邸宅まで謝りに行った。新山さんが誘ってくれてその日軽く飲みに行ったら「私、会社辞めようと思って」と打ち明けられる。家に着くと母と義父が居間でイチャイチャしている。私はやたらくさくさして松坂くんに「会いたい」と連絡をした。朝まで仕事だと思っていたら、今日はもう終わり家に帰ったという。コイツは本当いつもタイミング悪いなと思いながら私は家を出た。終電はもうない。電話がかかってきて
「どうした?タクシーで迎えに行こうか」
「いやいいよ。勿体ないし」
「あれ?外?どこいるの」
「武蔵小杉」
「ああ」
「じゃあ、迎えに来てくれるなら歩いてきて。私も歩いて荻窪向かうから」
「何言ってんの?いや普通にタク」まだ何か言ってたけど私は電話を電源ごと切った。
色んな事を思い出して私は泣きながら歩いた。少し嫌なことが重なって弱っていただけなんだけど、夜に人目も憚らず泣き歩くのは気持ち良かった。途中コンビニで缶ビールを買って飲みながら歩く。わがままで自分勝手でずるくって私は駄目なひとだなあと思った。3時頃、渋谷駅に着いた。脚が痛くなってきてもう歩くのも飽きてスマホの電源を入れて松阪くんに電話した。
「もしもし」
「もしもし」
「あのね」
「うん」
「今渋谷なんだけどどこにいる?」
「本当に歩いてたんだ」
「うん。そっちは」
「俺も歩いてた」
「そっか。今どこ?」
「え!まず本当に歩いていることを労って欲しい。なぜなら明日も俺は普通に仕事があるからね」
「今どこ?」
「ははは、いいやもう。あのねー、俺も今渋谷」
「え、どこどこ、どこらへんにいるの」私はスクランブル交差点にいた。キョロキョロしてもこんな時間でも人が多い。松坂くんは見当たらない。場所を告げてしばらくその場で待っていると松坂くんがやってきて、ヨッスと変に軽い挨拶をしてきた。
何も言わずに歩きだすと黙ってついてきてくれたので私は「ごめんね、嫌なことがあって」とポツリと言った。松坂くんは何も言わなかった。何も言わないで後ろからついてきて
「じゃあ、何か美味しいもの食べに行こっか」
「……うん」
「何食べたい?」
「…じゃあ、タコ焼き」
「タコ焼き?そんなんでいいの?じゃあ大阪まで行っちゃおうか」
その台詞で私は付き合おうと思ったのだ。
  少し長いけどこれは別に読まなくてもいいプロローグ。本当の物語は私が家を出ていってから始まる。このあと松阪くんから手紙が届くことになるのだけれど、それはまた別のお話し。

 

 

 

 

『LAST LOVE LETTER』に続く。