YJ文庫『駄目なひと#6』

  物事が上手くいくかどうかは結局のところタイミング次第だと思う。どんなに準備をしてきたことだってタイミングが合わなかったら充分に効果を発揮できないし、なんなら失敗しちゃったり。割りと世界はタイミングで成立しているというか、だからこそ「タイミングが…」という言い訳は最強だ。全ての経緯や原因を説明しているし、それ以上の説明が必要ない便利な言葉だし、言われたら何も言えなくなる。まあ、良くも悪くも。

  5月。連休の初日に私はハニャコのお芝居を観に行った。明日から二泊3日で新山さんと韓国旅行に行くことになっている。お芝居というものを私は観たことがなくて、そりゃ、子供の頃の学芸会とかで観たことはあるけれど、ちゃんとした観劇はしたことがなくって、しかもハニャコがやるということで私は楽しみにしていた。

  劇場は吉祥寺で、私はあまり行ったことのない土地なのでそういったワクワク感も相まってハードルが高くなっていたのかもしれないけれど、結論から言うと糞だった。いや、糞だったというか単純に面白くなかった。いや、面白くなかったというか意味がよくわからなかった。
  最初から順を追って話すと、劇場が綺麗で思っていたより大きくてポスターなんかも沢山貼ってあってハニャコもまあまあ大きく写っているというか《ゲスト》なんて名前の前についてたりして凄いじゃんと興奮した。私はその劇団を知らなかったけれど、お客さんも満杯で開演前ニギニギしていたので、その『街八分座』という劇団は結構人気の劇団なのかもしれない。座長はなんかテレビドラマの脇役で顔を見たことがある気がした。
  物語は、世間から落ちこぼれてしまった主人公(理由は最後までわからない)と幼なじみのヒロイン(ヒロインなのに男の役者がやっていた。男である必要は最後まで見たけどなかった)との二人で男女混合ビーチバレーの世界大会に出場する為に飛行機に乗るところからはじまって、飛行機の離陸時にそこで働く整備員だとかCAだとかが急に踊りだして意味不明だった。ミュージカルなのかと思ったけど踊ったり歌ったりしたのはそこだけだった。大会の場所に向かう途中で飛行機が事故(例のごとく理由は最後までわからない)にあい無人島に墜落。そこで肌の黒い原住民(言葉は普通に通じてしまう)とのふれあいを経てバレーボールの腕前が上がり(謎)世界大会に筏で向かおうとすると、いつの間にか戦時中で、このお芝居は最初から戦争反対がテーマでした。みたいな感じになっていき、登場人物が全員死んで、特に思い入れのないキャラの死がやたらと長かったり照明が凝っていたり、実は主人公の心の中の出来事でしたみたいなオチ(それもあやふやな感じにしてある)で、感動的な音楽が流れて終わりみたいな内容で、は?ナニコレ感が凄惨極まりない。細かいところにおいても流れとかその役の性格とか関係なく唐突にふざけたりして、それに対して主人公が下手くそなツッコミを入れるみたいなシーンが散見して辛い。しかもなんだ観客席にいるのは知り合いだとか友達だとか家族とかなのか、それが結構ウケる全然面白くないのに。それも不快なので客席にも味方がいない状態で孤独感が半端なく、身内ネタみたいのもふんだんに盛り込まれていて、風刺なのかオマージュなのか何なのか元ネタはわからないけど寺山修司がどうとかみたいなシーンとか私は「知らねえよ」としか言えねえよみたいなシーンも多くて、終わってみれば90分くらいの公演だったのに夜行バス(しかも4列シート)で東京から大阪に向かったくらいの体感時間と身体的疲労だった。
  肝心のハニャコはロシアから来た凄腕女スパイ主婦ビーチボーラーで、最終的にはカステラになっちゃうんだけど(なんだソレは)、急にドイツ語でべらべら喋るシーンがあって、嘘だらけのお芝居や胡散臭い役者達、愛想笑いばっかする客達の中でハニャコのドイツ語だけが圧倒的に本物で、なんだかバランスが可笑しくて笑ってしまった。笑ってはいけないシーンだったのか周りで泣いてる人もいたのでジロリと睨み付けられて慌てて笑うのを止めた。これで4500円である。ふざけるな。漢字で言おうか。巫山戯るな。人生で一番無駄な4500円の使い方をした。そういう気持ちになった。カーテンコール後にロビーで出演者と話せるみたいのがあったけど、ハニャコにどんな顔して会ったらいいかわからなくて素通りしようとしたら捕まって、私は精一杯自然に見える作り笑いで「面白かったよ」と言うと、まんざらでもない顔で「次もまた誘うね」と言われた。次がいつになるかはわからないけど既に予定が入っていてタイミングが合わず来れないと思う。私は夜の部も頑張ってねと告げ劇場を後にした。

  時計を見ると17時ちょっと前で、ハッキリ言ってこのまま帰りたくなかった。この謎の敗北感を抱いたまま帰りたくなかった。なにか美味しいものが食べたかった。しかし吉祥寺に土地勘がなくてぷらぷらして入った店が美味しくなかったら連敗することになる訳で、そうなるともう洋服を衝動買いしてストレスを発散するしかなく、旅行前にそれは避けたい。帰るか真っ直ぐ。それが一番傷が浅く済む気がする。駅のホームでぼうっとしていると中々電車が来なくてそれすら苛々する。ホームにある路線図を見ていると隣の駅が西荻窪、その次が荻窪で、あれ荻窪ってなんだっけ。どこで聞いたんだっけと頭を巡らすと、松坂くんが住んでいるところだと思い出した。私は『今なにしてんのー』とLINEをするとすぐ既読がついて『家でゴロゴロしてる』とすぐ返事が来た。お。

『今、吉祥寺にいるんだけど』
『そうなの。え、なにしてんの?』
『お腹すいたんだけど』
『質問に答えないスタイルじゃん』
『何か美味しいもの食べたいんだけど』
『吉祥寺?何食べたいの』
『辛いの』
『じゃあ美味しい韓国料理屋あるよ』
『韓国料理だけはパス』
『あ嫌いだった?』
『いやむしろ好きだけど』
『じゃあ何で韓国料理ダメなの?』
『お腹すいたんだけど』
『無視じゃん。え、お腹すくとエリカ様になっちゃう感じ?』
『…別に。』
『フリには応えるじゃん』
『ねー、お腹すいたー』
『じゃあタイ料理は?』
『タイ料理ねえ』
『タイ料理です』
『タイ料理ねえ』
『あ嫌いだった?』
『女にはタイ料理食わせとけばいいって感じが腹立つ』
『なんだそれ』
『仕方ないな。タイ料理を奢らせてあげよう』
『何で上からなんだよ』
『どうしたらいい?』
そこで急に会話が滞り既読もつかない。こういう次どうしたらいい?というタイミングで既読がつかないと1、2分でも凄く長く感じる。まだ既読がつかない。つかない。つかない。松坂のくせに。つかない。ついた。プクンとLINEの通知音。
『じゃあ西荻窪来て。隣の駅』
『吉祥寺じゃねーのかよ』
また少し滞ったあとに『どうでもいいけど、口悪いな』と返事があった。そこで丁度電車が来たので私はそれにピョイと飛び乗った。

 

 

YJ文庫『駄目なひと#5』

  赤ら顔の課長が「ジャスミンハイを飲んでる女はヤレると聞いたんだけど、里中さんは今日ムラムラしてるのかな」と、このご時世にとんでもない発言をしている。ただジャスミンハイを飲んでいただけなのに酷いセクハラだ。それをしなやかに受け流しみんなのおかわりのオーダーをとっている里中は合気道を極めた達人のような頼もしさがある。
「えっとー、生ビールは結局何個ですかー?」
「ま○こー」
「ちょっと、一万個も頼んだら飲みきれないじゃないですかー」
課長の発言の酷さに耳を疑っている場合じゃない。里中の頭の回転が早すぎて一瞬何を言っているのか分からなかった。

  私達は大手チェーンの居酒屋であり松坂くんが働いている黒木屋の座敷席で新入社員の河野くんと4月から配属された支店長の歓迎会をしていた。しかし早々に支店長はあんまり遅いと家内に怒られるからと、一時間も経たない内に一万円札を三枚置いて帰っていった。ひとり3000円のコースで、参加したのが10人だったので全部払ってくれたことになる。スマートで格好いい。するとそれまで鳴りを潜めていた課長が酔いも手伝いどんどん調子づきセクハラ大御殿が竣工したのである。河野くんはおとなしいタイプで下戸らしく主役なのに隅っこで縮こまっていた。隣に新山さんが座っていて、微かに聞こえてきたのは「だからお前は童貞なんだよ」という台詞で、これはこれでセクハラが酷い。特にズレてもいないのに眼鏡をカチャカチャと直す河野くんの耳は真っ赤だった。

  はじめて両替をしに来た日から松坂くんは毎日のように顔を出した。翌日は写真を思いだし笑いしてしまい危なかった。そのうち挨拶を交わすようになり、一言二言話すようになり、4月の終わり頃歓迎会の話が持ち上がった時にじゃあ松坂くんのお店にお願いしようかなとなった。
  普段こういうお店はあまり来ない。学生の頃はよく来ていたけど、社会人になってから美味しいものを食べたいだとかお洒落な場所で飲みたいだとか思うようになって、人に奢ってもらう術を身につけてからはますます疎遠になった。串から外された焼き鳥のももを箸でつまんで口に放り込む。不味くない。不味くないどころか美味しい。同じものがもっと雰囲気のある薄暗い個室の、お洒落な髭をはやした塩顔男子が運んでくるようなお店で出てきたらもっと美味しいと感じると思う。食べ物は盛り付けてあるお皿だとか、お店の雰囲気だとか、一緒にいる人で全く味を変える。こんな軽めの地獄みたいな飲み会で美味しいと感じるんだから大したものだわ、となぜか偉そうな口を心の中で叩く。しかし、こういった大衆居酒屋の週末にしては、しかも20時というかきいれ時にしては、お客の入りが少ないような気がした。

  トイレにたった時、厨房から料理が出てくるところの脇でおじさんに叱られている松坂くんを見かけた。トイレを済まし席に戻ろうとしたら松坂くんが客が帰ったあとのテーブルを片付けていたので声をかける。
「さっき怒られてたね」
「え、あー橘さん。はは、何か格好悪いとこ見られちゃったな」
「うん、格好悪かったよ」
「酷い。しかもさ、あの人アルバイトなんだ」
「そうなの?何か偉い人かと思った」
「長いバイト。この店舗、自分より歳上のバイトの人ばっかりで何だかやりづらくってさ」
この居酒屋チェーン店の大元の会社は食品加工会社で、そこの営業部に就職したのだけどこの4月から店舗勤務になったらしい。しかし、居酒屋でのアルバイトの経験もないし松坂くんは24歳だし、年長のアルバイトの方々に小馬鹿にされているらしい。さらにアルバイトの大学生とかにもシンプルに馬鹿にされているらしい。知り合いに話しかけられて気が緩んだのか聞いてもいないのに愚痴が溢れた。厨房の方から「お願いしまーす」と料理が出てきて松坂くんが大きな声で返事をしたので、私はじゃあまたねと軽く挨拶をしてその場を離れたら、後ろから皿が割れる音のあと、申し訳ありませんでしたーと元気の良い声、何やってんだまたかよ馬鹿という怒声が同時に聞こえてきてそりゃ舐められるわ、と私は笑った。
  席に戻ると耳だけじゃなくて見えているところの肌が全身真っ赤になった河野くんが課長の首を絞めていた。座敷席は大盛り上がりで新山さんは床を叩きながら笑っていた。河野くんに酒を飲ませて何かしら焚き付けたのだろう。課長だけ本気でやめなさい、やめなさいと抵抗するも完全に出来上がってる河野くんはごめんなさい、ごめんなさいと言いながらますます首をしめる。口の端に泡みたいのが浮いている。課長の口まわりにも泡が吹き出してきて、ふたりとも顔が真っ赤だったので新山さんが「蟹かよ」と突っ込むとまたみんなが一際大きく笑った。丁度その時に、松坂くんがお待たせしましたーと生ビールを五個持ってきて、テーブルの端に置こうとしたら暴れた課長がテーブルにぶつかり生ビールのジョッキがひとつ倒れ私に少しかかった。慌てる松坂くん。そんなことに気付かない課長は河野くんにプロレスラーがやるようなチョップをお見舞いしている。新山さんがゲラゲラ笑っている。近場にいた人達がおしぼりを投げて寄越してくれた。腹が立つ。落ち着こうと思い一旦廊下に出ると松坂くんが「本当にごめん。これクリーニング代に」と言って二千円を差し出してきた。
「いや、いいよいいよ。悪いのは松坂くんじゃないし」
「いや、でもさ」
「じゃあ、もらうわ」
「切り替え早いな」
「これで帰りにハーゲンダッツでも食べる」
「いやクリーニングしろよ」
「それは課長からもらうわ」
「しっかりしてんな。つうかじゃあ二千円返してよ。それ俺のポケットマネーなんだよ」
「いいよ」
「いいのかよ」
「じゃあ今度夕飯奢って」
「ん、あ、ああ、うん、いいけど夕方出勤で大体朝まで働いてるからな」
「休みとかはどうなってるの」
「まちまち。バイトのシフト次第で変わってきちゃって」
「予定合わないね」
「難しいね」
「この辺に住んでるの」
「いや荻窪
「遠いな」
「うん、遠いんだよ」
「じゃあやっぱり二千円もらおうかな。ハーゲンダッツ買って食べる」
「あ、ああ、うん。はい。いや、何個買うつもりだよ」
そんな会話をして連絡先を交換した。男として意識していないから何だか話していて気が楽で、軽口を叩けるのがいい。新しい飲み友達を見つけたみたいで気分がよかった。

「あ、ついでに私の飲み物オーダーしていいかな」

「うん。生ビールでいいのかな」

「あー、どうしようかな。ジャスミンハイで」

普段あんまり飲まないのに、その時の私はなぜかジャスミンハイを注文していた。

YJ文庫『駄目なひと#4』

  別にどうでもよかったのだけど、あんなに面白い見た目の人を忘れるなんて記憶に自信がもてなくなり、夜お風呂に入っている時に久しぶりに大学の時の友人であるハニャコに電話してみた。

  ハニャコとはもちろんあだ名で彼女にはタカコというちゃんとした名前がある。タカコはもともと真面目一徹みたいな性格で、冗句も言わないし人とズレたことをするのが嫌いだった。同級生や下級生にも敬語を使うような礼儀正しさがあり、何をするにも一旦人の意見を聞いて自分で考えてから結局人の言いなりに行動するのでタイムラグが酷く、ひとりだけ回線が重いので結局、人とズレたことを言ってしまったり、してしまったりする娘だった。あまり友人もいない様子で暗かった。だからという訳でもないかもしれないけれど、タカコの就職活動は上手くいかなかった。どんどん様子がおかしくなっていき79社めに落ちた時に完全にバグった。彼女はそこから思ったことをそのまま口に出すようになり、すると物凄い口が悪かった。何でもハッチャけるタカコ。略してハチャコの誕生である。ゼミが一緒だったから知り合いではあったもののそこまで仲は良くなくて、ハチャコになってから仲良くなれた。

  しばらくすると、タカコが異常に遅い喋り方だったのは山形弁の訛りを隠していたのが原因だということがわかった。じゃあ山形弁でいいから普通に話してみてよというと喋るは喋る。しかも早口だし何て言ってるかわからなくって、でも語尾にやたらとニャーとかニャとかついてニャーニャーうるせぇなとなり、ハチャコからハニャコに進化したのである。そして理由は全く不明だが、急に蘭の栽培をするんだと言い始めて大学を中退し種子島に渡った。島の民宿で住み込みのアルバイトをはじめたけれどそこで食べたソーセージに感銘をうけ今度はソーセージの本場ドイツに。ドイツには一年半くらいいたと思う。日本に帰ってきた時に一度飲んだ。なんとドイツで人生初めての彼氏ができるものの、彼はアルコール依存症で、詳しくは知らないけれどドイツには麻薬に近いビールがあるらしく彼はそれを愛飲していたそうだ。そんな奴のどこがいいのと聞くと「私の身体中に蟻が這っているらしくて、それをやさしく払ってくれるの」と言っていてスゲー笑った。内容もさることながら海外での生活がハニャコに完璧な標準語を身につけさせていた。けどそこから少し疎遠に。噂では、現在は日本に帰ってきていて名古屋でSМの女王様をしているらしい。なぜだ。凄い人生だ。まぁそんなハニャコに、私は松坂くんのことを聞いた。

  ハニャコは「あー、そんな人もいたかもなあ」と言ったけどうろ覚えの感じだった。パソコンにゼミの飲み会の時の写真があるというので送ってもらうと、確かにそこに松坂くんはいた。集合写真の隅っこで、なぜかおしんこを見せつけるようにして写っている。しかし現在の松坂くんとは随分印象が違くって今よりもパンパンに太っているし、髪形が角刈りだった。西郷隆盛みたいだった。カメラ目線じゃなくて少し左に視線を外しているところも西郷隆盛感が凄い。今日はバンダナをしていたけど後ろから束ねた縮れ毛が見えていたので相当長いと思う。アフロヘヤーというかそんな感じだと思う。というか髪が短かかろうがそこに写っている誰よりも顔面が大きく下手くそな合成のようだった。

  私は『当たり日』の疲れとストレスがぶっ飛ぶくらいその写真を見て笑った。ハニャコもなんだこの写真と大笑い。ありがとうと礼を言い電話を切ろうとしたら「今度お芝居に出るから見に来てよ」と言われた。今は東京で舞台女優をやっているらしい。激動かよ。私もハニャコも松坂くんを忘れてしまっていたけど、見た目はそんなにかわってないのに今のハニャコを見てかつてのタカコだとわかる人も相当いないだろうな。と思ったとき、この写真の頃と見た目も中身も変わらない自分が何だかつまらない人間に思えた。

YJ文庫『駄目なひと#3』

  窓口で面倒臭いお客さんを担当してしまうことがある。丁寧に対応してようやく帰ったと思ったらその日はそんなお客さんばかり担当してしまうなんて事がたまにあり、ハズレくじを引いてばっかの筈なのに『当たり日』なんて呼ばれている。

  週明けの月曜日、私はガッツリ当たり日になってしまった。朝から、処理に時間がかかり過ぎるとか、カードの再発行になぜ手数料がかかるのかと文句を言ってくる人だとか、自分で招いた本人確認の書類の不備に愚痴を言ってきたり、印鑑の相違があったので告げると私はこれしか持ってないと言い張るオバサンだったり、家でひとりで寂しいのだろうか老人の長話しに付き合わされたりして、果ては前に粗品でもらったサランラップがすぐに切れて使いづらいなどというクレームをする人まで出てきた。午前中で悪い流れが終わればいいと思ったのに午後も続き、お昼休憩前にはあった同情の視線もなくなり里中に「ここまでくるとウケますね」と言われて、イタズラっぽく笑う里中のお尻をむぎゅっと掴んだ。軽く矯声をあげ小走りで胸を揺らしながら去っていくその一連を、遠くでしっかりと課長が助平そうな顔で見ていた。心のハアハアが聞こえてきそうな顔だった。なんだか一気に気が抜けてヘトヘトになりつつも時間的に最後のお客さんを受け付ける。

  少し太った男が窓口までやってきて座った時、油の匂いがプンと鼻をついた。男は黒いシャツとズボンに赤い前掛け姿で黒いバンダナをしていた。大手チェーンの居酒屋の制服だった。バンダナから少しハミ出た縮れ毛が陰毛に見えた。男は「両替をお願いします」と一万円札5枚とメモ用紙を出してきて、どの硬貨の棒金がどれくらい必要なのか書いてあった。そんなことよりも、札とメモ用紙を差し出してきた男の指が、ささくれだっていたりあかぎれていたりして、異常に短く太いので樹木みたいだった。かしこまりましたと笑顔で接客し、両替して窓口に戻り、これくらいの両替ならば両替機でも出来ますよと告げようとしたら「あの、あ、橘さんですよね?」と男は言ってきた。

  私は言葉の意味がわからず少し固まって、あれ、今日の感じからしてまたハズレ客かなと思い硬い声で「はい」と返事をしてはじめてまじまじと男の顔を見た。
  顔面の面積が凄く大きかった。身長はそんなに高くなかったはずで、こんなに大きいと身長が190㎝くらいあってはじめてバランスがとれるくらいに顔が大きかった。目や鼻などのパーツもいちいち大きくて、それぞれクッキリとしているのに集まるとやはりバランスが悪かった。眉毛が凄く太くて明太子くらいある。大きな目の端に、邪魔じゃないのかなと心配になるくらい目ヤニがたまっていた。男は立ち上がると「あ、ああ、やっぱりそうだった」と少し嬉しそうに言う。

  誰だろうか。こんなにインパクトのある顔を中々忘れなさそうだけど。男の制服の胸のところにネームプレートがあって『黒木屋武蔵小杉店。店長まつざか』と書いてあった。まつざか。松坂、かな。わからない。誰だろうか。誰だコイツ。私にしては珍しく感情がそのまま表情に出てしまっていたのか、男は「あ、あ、覚えてないかな。あのー、あれ、その、大学でゼミが一緒だった松坂です」と言った。私は、あ、そうなんだと思ったけれど、そう言われても全然思い出せなかった。

 

YJ文庫『駄目なひと#2』

  私は大学を卒業後、地元の信用金庫に就職した。東京の大学に通ってたんだけど、地元は神奈川県の川崎市なので実家暮らしだし、特にやりたいこともなかったし、何となく何社か就職活動をして受かったところに収まっただけだ。友人にも何人かいたんだけど、就職活動が上手くいかなかったり悩む人の大半は何かしらの理想があって夢とかあって、それは素晴らしいことだけど、単に現実の自分との齟齬に悩んでいるだけのように思えた。言い換えれば自分のことが解ってない。一般事務。それでいいじゃん。私なんてそんなものよ。そりゃ忙しい時もあるけれど、ほぼ毎日定時に帰れるので平和なものだ。

  ある日の開店前。ATMに現金の補充をし、係ごとにミーティングを行った際、隣のデスクの新山さんが「橘、今週末に飲み会あるんだけど、どう?」と聞いてきた。新山さんは2つ歳上の先輩で、この退屈な職場での唯一の友人というか飲み友達で、見た目が派手だ。一緒に飲んでいて楽しいし、男勝りな気っ風の良さがあるのだけれど気が強いのと面倒見が良いのとで姉御肌を越えてオカンキャラになってしまっていて、綺麗な顔立ちなのにあまりモテない。本当は凄く乙女だったりするのに勿体ない性格だなとつくづく思う。私は童顔で背が小さいタイプなので私と一緒に飲んでいると男を釣りやすいとよく飲みに連れていってくれる。新山さんが事前に飲み会あるよと言うときは少し気合いが入っている時だ。相手は商社の人だろうか。私は私で今付き合っている男とはフェードアウトしていきたいと思っていたのでこれを快諾。私は『彼氏』が途切れるのが嫌だった。だって何か可哀想じゃん。別れたくなったら次の良さそうな相手を探し、見つかれば少し付き合ってみて、続きそうなら前の彼氏を切ればいいだけの話で、わざわざ独りになる必要もないし独りでいるのは寂しいし。

  当日、張りきり過ぎないラフな格好で出社。デニムのワンピースにゆるく淡いグレイのニットを合わせた。更衣室で制服に着替えていると、一個下の後輩である里中が「今日の飲み会よろしくお願いしますー」と言ってきた。里中は決して太ってはいないんだけど全体的に丸っこい。それは胸の圧倒的なボリュームからくるもので、いつも潤っている厚ぼったい唇と上目遣いと適度な天然発言でおじさん達から絶大な支持を得ている。あ、今日の飲み会は新山さんと私と里中なんだ。この支社の一軍メンバーじゃないか。対外的には私と里中はよく一緒くたに見られるので心外だ。白いふわふわのオフショルのニットにチェックのミニスカート。温かいんだか寒いんだかわからないただ男が好きそうであるという為だけに存在する服を着ていた。新山さんは私が意外と冷めていると知ってくれているから好いてくれていて、里中みたいな女は嫌いだと以前言っていた。和解したのか。それとも背に腹は代えられなかったのか。

  きっちり定時に就業し、かっちりメイクを直してから3人で中目黒に向かった。鴨とワインのお店。駅から程近いのに入り口が少しわかりづらく隠れ家的な雰囲気のある洒落た店だ。実は何回か来たことがあって、以前も新山さんとの飲み会だった。新山さんが選んでいる訳じゃないらしく、シティボーイを鼻にかけた小洒落た男が選ぶ店なのだろうか。個室に通されるとガタイがよくてラガーマンみたいな男とインテリヤクザみたいな男がふたり既に座っていて、ひとりは少し遅れてやってくるという。確かに顔つきは整っているし、商社に勤めているから収入もあるだろうし自信に満ちているモテそうな男性なんだけど、ふたりは全然違うタイプなのに全く同じような空気感で何だか不気味だった。料理はコースで出てくるのでお任せして、ワインは私は赤が好きだし鴨なら赤だろと思うのだけど白を頼む。男と飲む時はいつも白を飲む。なぜならそっちの方が女の子っぽいからだ。度数の割に飲みやすく隙があるように見えるから。私も新山さんも酒は強い。とりあえず皆最初はシャンパンで乾杯し、飲み会がはじまった。
  基本的に新山さんが会話をリードしていた。新山さんは会話をまわすのが上手いし、面白い。しかし駄目だよそんなことしちゃ。男に聞かれたことを馬鹿みたいに答えてりゃいいんだから。こんなプライドの塊みたいな、自分達のことを面白いと思っているような男達には相づちをうって適当に笑って、たまに大笑いして軽く肩に触れればそれだけでその気になってくれるのに。その点、里中は上手い。開始15分くらいでラガーマンは里中狙いなのがわかった。それがわかったくらいで里中は徐々にインテリヤクザとの接触を増やし、ラガーマンが会話に少し強引に割って入るみたいになってきたのを見計らってトイレにいった。そうやって俯瞰しつつも相づちをうちながら適当に笑い私は普通に食事と飲み物を楽しんでいて男側にまだ来ていない人がもうひとりいるのを丁度忘れるくらいにもうひとりがやって来た。
  控えめに遅れたことを謝罪して彼は林と名乗った。凄く素敵な人だった。背の割には少し痩せているかなと思うけど、切れ長の目なのに童顔で、なんだか笑うと柴犬みたいな人懐っこさがある。会話もなんだか知的で、3人は共に28歳と言っていたけれどひとりだけズバ抜けて落ち着いていて気づかいもあり、ニコニコしてばかりであまり喋らないけど喋れば気の利いた一言でみんなの笑いを誘った。素敵だった。そんな遅れてやってきた林さんは営業部で若きエースらしい。ラガーマンが自分のことのように自慢していた。3人とも素敵な男性にはかわりないんだろうけど、明らかに林さんの一強で私たち女性陣はみんな林さん狙いみたいな感じで、まあ今日は仕方ない、私は新山さんに譲った。しかし里中は天然のふりしてそんな女の雰囲気をしらばっくれて林さんに猛攻をしかけては軽くあしらわれていて、そんなところも林さんは素敵だった。酔いも手伝いだんだんと新山さんが珍しく女の子っぽくなってきた時、仕事の電話が入り林さんは抜けてしまった。遅れてやってきたのに一番早く帰っていった。何となく場が白けた感じになりおひらき。里中は最初から林さんなんていなかったかのようにラガーマンと腕を組み夜の街に消えていった。逞しい。インテリヤクザは見た目とは裏腹にお酒が弱いらしく後半べろべろで、そんなところは可愛かったけど早々にタクシーに乗り帰っていった。

  とりあえず駅に向かおうか、と新山さんがスマホをいじる。私もスマホをいじる。 まだ22時を少し過ぎたくらいだ。駅に着くと、新山さんが「あ、捕まった」と言い電車に乗って六本木に向かう。マッチングアプリで適当に男をひっかけてお酒を奢ってもらうのだ。私達は何だか飲み会で結果を残せなかった時によくこれをする。じゃあ行くぞーと元気良く 吠える新山さんの横顔は楽しげで、今日はいい夜だったなと私は思った。

YJ文庫『駄目なひと#1』

  どんなに楽しいことだって終わりがあると、私はいつから知っていたんだろう。大好きだったアニメが最終回をむかえ次のクールにはまた新しいものがはじまり、当たり前に無中になり、そしてまた終わり、を繰り返した幼少期か。あんなに仲の良かった友達が隣の県に引っ越してからは一度も会わなくなった小学生の頃か。どんなに努力したつもりでも地区大会の一回戦で負け続けた中学三年間の部活動か。教育実習生に一目惚れして遊ばれた高校二年生の春だろうか。毎晩のように記憶がなくなるまでお酒を飲んで遊びまわった大学生時代か。いつからなのかは定かじゃないけど、いつの頃からかどんなことにだって終わりがあると知っていた。誰だって知っている事だけど、その最初を自覚している人は少ないんじゃないだろうか。

  洗面所で鏡の前にぼうと立ち歯を磨く男を見ながらそんなことを思った。今回は一カ月もたなかったな。そもそもは私の片想いから始まって、それなりの手順を踏み、時にアクロバティックな手法を用いて距離を縮め、無事お付き合いをすることになった筈なのに、こんなにも早急に興味を失うということは私に問題があるのかもしれない。けれど『女の子』と呼ばれている季節は人生に於いてとっても短く、故に、とっても価値があるので、惰性で興味のない男と付き合っている暇はないのです。私も男の横に立ち歯ブラシを咥える。歯を磨きながらこの男との終わりの始まりはなんだったのか考えてみた。まぁ、きっと一つの要素ではなくていくつかの要素が重なり合ってこうなっているんだろうけど、最初に思い出すのはツケマツゲで怒られたことだ。

  はじめてこの家にお泊りした日のこと。私は目が小ぶりな事がバレたくなくてメイクを落としたくなかったのだけど、すっぴんが見たいと事後この男にせがまれて、まだお付き合いをしてなかったし、従順な女であると、または純情な女であると思わせるため恥ずかしがりながらメイクを落とした。テーブルの上にツケマツゲを左右重ねて置くと「ゲジゲジみたいだね」と面白くもなんともないことを言ったので曖昧に笑っていると、ウケたと勘違いして「そんなの瞼につけてかぶれないの」だとか、装着時に「今、瞼の上でゲジゲジが動いたよ」などとスベリ続けた。しかし私が毎回曖昧に笑っているのでお気に入りの弄りになってしまった。お付き合いしだして間もない頃に男が眠っている時に枕もとにそのゲジゲジを置いておくというイタズラとも呼べないような可愛らしいイタズラをしかけると、目を覚ました男は心底驚いたのか、寝転がった姿勢のまま30㎝程浮いた。それだけでも人間にそんな常軌を逸した動きができるんだと面白かったのに、そんな派手なアクションをしているにも関わらずポーカーフェイスで、というよりは表情が乏しいだけかもしれないけれど整った顔つきはそのままで、そのアンバランスさが可笑しくって私は笑った。すると「笑うなブス」とピシャリと言われて私は一瞬言葉の意味が理解できずポカンとしたあと、曖昧に笑った。あの時に私は、なんて余裕のない人だと思い、ああこの人は攻撃しかできない人なんだなと理解した。

  男は歯を磨き終わるとおしっこをした。トイレから聞こえるじょぼじょぼという音でわかる。立ったままするので音が響く。ドアを開けて出てくると湿度の高い顔つきで、手を洗って欲しかったけどそんな願いも空しく男は私に触りはじめた。そもそもおしっこをしたのならそのイチモツもちゃんと洗ってからシテ欲しい。膀胱炎になったら治療費はだしてくれるのか。そんな事を考えているとはおくびにもださず、くすぐったいだけの下手くそな前戯に笑いをかみ殺していると、男はなぜか頭に乗って好きだねみたいな内容の酷く的外れなことをつぶやいた。

  24歳の私は特に幸せではなくかといって不幸でもなく、仕事に不満がある訳でも満足している訳でもなく、友達もいるし、男に不便もしていなくって、そういったどこにでもいる平凡な、だからこそ、満たされないというか、神さまみたいな凄く偉い存在に空の箱を渡されて「ずっと持ってなさい」と言われたような、いつまで持ってたらいいのだろうかというような所在のなさを常に感じていた。そういう焦りのような感情から何か楽しいことはないのかなと探して探して安易な恋に身を投じるけど、そう。どんなに楽しいことだって終わりがあると私は知っている。ただその終わりの間隔がどんどん短くなっているのが気がかりではあるのだけれど。
  とにかく私は、橘優雨は、冷めたような考えをぶっ飛ばすような楽しみを、終わりのない楽しみを心のどっかで待っていて、そのはじまりは到底誰にも気づけない、冴えない男との再会だった。

なぜ買わなかったのか。

少し前に、前といっても半月ほど前だけど何だか洒落てるお花屋さんの前を通ると、これまたお洒落な鉢植えがdisplayされていて、それは桜の鉢植えなんだけど、4000円だった。
僕は足を止め暫くその鉢植えを見ていた。財布の中には弐萬圓入っていた。

 


まず根底に僕は観葉植物を何か買いたい、買いたいというと変な感じですね、飼いたいと思っていた。飼いたいというのも違和感はあるけど生物なのでオカシクはないでしょう。
そう、常日頃僕は観葉植物を欲していた。僕の家にはなくて、観葉植物なんてものはこうヒーリングといいますか、精神を正常に働かせる効果があるというか、そういう効果がこれは絶大にある。幼少の頃から家庭では当たり前のように観葉植物があり、僕も過去に飼育していたことがある。サボテンも花を咲かした。
あと、ある研究では植物には意思があるというものもあり、殺害現場にあった植物に犯人を面通ししたら反応があったというデータまで残っている。
なので頭狂という頭の狂った人がひとりやふたりではない殺伐としたこの地で、ひとり暮らしをしていたらいつ殺害されるかわからないので、そういう観点からも観葉植物を欲していた。

 


そこにきた桜の木の鉢植えが4000円で売っている機会である。こんなものは即買いである。しかも財布には札、弐萬圓也が入っているのだ。

桜の鉢植えがひとり暮らしの男の部屋にあったらどうだろうか?うん。言わずもがなお洒落である。ワンランク上の男である。
しかし、この場合ちょっと格好つけすぎている感もある。この格好つけずぎというところが問題なのであって、格好つけているのを相手に悟られない格好つけが一番格好いいのであって、格好つけてることが相手にバレてしまう格好つけは一番格好悪いのである。
そもそも僕は観葉植物を欲していたのであるから、丁度いい。心牽かれたならば即買いすればいいものの、え?桜?という。桜は格好つけすぎである。こと観葉植物にするならば。

こんなことを言うと、観葉植物を欲しているのならば別に格好つけすぎとか考えず買えばいいじゃんけ。とかいう人が顕現しそうですが、わかってない。もし桜の鉢植えなんぞ買ってしまったらこれはもう愛でる。飼育の本まで買って懇切丁寧に育て上げる。そんな姿は目に見えている。そうするとどうしても人に自慢したくなる。可愛い我が子をどうしても披露したくなるのが人の心と云うものです。なので、そこに至れば格好つけるつもりはなくても対外的には結局、格好つけすぎてしまうことになる。


じゃあ誰にも言わなきゃいいじゃん。なんて見も蓋もない畜生が如き輩が湧いてきそうですが、そうじゃない。マッタク判ってない。
よく、見えないお洒落に気を使えなんて言葉があり、下着にも気を使えみたいな風潮がありますが、結局見せる時の事をふまえながらの洒落なんで、見せるのである。なので桜の鉢植えだって結局見せる為の、魅せる為のものなのである。


つまり何が言いたいかというと、他人に見せない洒落に4000円かあ…ということである。いや、値段じゃないけどねッッ!この吝嗇がッッと罵るのはやめて欲しいですね早計というものです。


とにかく僕は、観葉植物を欲している訳で格好つけたい訳ではないので、どうせ観葉植物を飼育するなら春しか楽しめない桜より、SSAW楽しめるものを飼おうと思い、スッと財布を鞄に仕舞いその場を立ち去ったのです。