YJ文庫『駄目なひと#5』

  赤ら顔の課長が「ジャスミンハイを飲んでる女はヤレると聞いたんだけど、里中さんは今日ムラムラしてるのかな」と、このご時世にとんでもない発言をしている。ただジャスミンハイを飲んでいただけなのに酷いセクハラだ。それをしなやかに受け流しみんなのおかわりのオーダーをとっている里中は合気道を極めた達人のような頼もしさがある。
「えっとー、生ビールは結局何個ですかー?」
「ま○こー」
「ちょっと、一万個も頼んだら飲みきれないじゃないですかー」
課長の発言の酷さに耳を疑っている場合じゃない。里中の頭の回転が早すぎて一瞬何を言っているのか分からなかった。

  私達は大手チェーンの居酒屋であり松坂くんが働いている黒木屋の座敷席で新入社員の河野くんと4月から配属された支店長の歓迎会をしていた。しかし早々に支店長はあんまり遅いと家内に怒られるからと、一時間も経たない内に一万円札を三枚置いて帰っていった。ひとり3000円のコースで、参加したのが10人だったので全部払ってくれたことになる。スマートで格好いい。するとそれまで鳴りを潜めていた課長が酔いも手伝いどんどん調子づきセクハラ大御殿が竣工したのである。河野くんはおとなしいタイプで下戸らしく主役なのに隅っこで縮こまっていた。隣に新山さんが座っていて、微かに聞こえてきたのは「だからお前は童貞なんだよ」という台詞で、これはこれでセクハラが酷い。特にズレてもいないのに眼鏡をカチャカチャと直す河野くんの耳は真っ赤だった。

  はじめて両替をしに来た日から松坂くんは毎日のように顔を出した。翌日は写真を思いだし笑いしてしまい危なかった。そのうち挨拶を交わすようになり、一言二言話すようになり、4月の終わり頃歓迎会の話が持ち上がった時にじゃあ松坂くんのお店にお願いしようかなとなった。
  普段こういうお店はあまり来ない。学生の頃はよく来ていたけど、社会人になってから美味しいものを食べたいだとかお洒落な場所で飲みたいだとか思うようになって、人に奢ってもらう術を身につけてからはますます疎遠になった。串から外された焼き鳥のももを箸でつまんで口に放り込む。不味くない。不味くないどころか美味しい。同じものがもっと雰囲気のある薄暗い個室の、お洒落な髭をはやした塩顔男子が運んでくるようなお店で出てきたらもっと美味しいと感じると思う。食べ物は盛り付けてあるお皿だとか、お店の雰囲気だとか、一緒にいる人で全く味を変える。こんな軽めの地獄みたいな飲み会で美味しいと感じるんだから大したものだわ、となぜか偉そうな口を心の中で叩く。しかし、こういった大衆居酒屋の週末にしては、しかも20時というかきいれ時にしては、お客の入りが少ないような気がした。

  トイレにたった時、厨房から料理が出てくるところの脇でおじさんに叱られている松坂くんを見かけた。トイレを済まし席に戻ろうとしたら松坂くんが客が帰ったあとのテーブルを片付けていたので声をかける。
「さっき怒られてたね」
「え、あー橘さん。はは、何か格好悪いとこ見られちゃったな」
「うん、格好悪かったよ」
「酷い。しかもさ、あの人アルバイトなんだ」
「そうなの?何か偉い人かと思った」
「長いバイト。この店舗、自分より歳上のバイトの人ばっかりで何だかやりづらくってさ」
この居酒屋チェーン店の大元の会社は食品加工会社で、そこの営業部に就職したのだけどこの4月から店舗勤務になったらしい。しかし、居酒屋でのアルバイトの経験もないし松坂くんは24歳だし、年長のアルバイトの方々に小馬鹿にされているらしい。さらにアルバイトの大学生とかにもシンプルに馬鹿にされているらしい。知り合いに話しかけられて気が緩んだのか聞いてもいないのに愚痴が溢れた。厨房の方から「お願いしまーす」と料理が出てきて松坂くんが大きな声で返事をしたので、私はじゃあまたねと軽く挨拶をしてその場を離れたら、後ろから皿が割れる音のあと、申し訳ありませんでしたーと元気の良い声、何やってんだまたかよ馬鹿という怒声が同時に聞こえてきてそりゃ舐められるわ、と私は笑った。
  席に戻ると耳だけじゃなくて見えているところの肌が全身真っ赤になった河野くんが課長の首を絞めていた。座敷席は大盛り上がりで新山さんは床を叩きながら笑っていた。河野くんに酒を飲ませて何かしら焚き付けたのだろう。課長だけ本気でやめなさい、やめなさいと抵抗するも完全に出来上がってる河野くんはごめんなさい、ごめんなさいと言いながらますます首をしめる。口の端に泡みたいのが浮いている。課長の口まわりにも泡が吹き出してきて、ふたりとも顔が真っ赤だったので新山さんが「蟹かよ」と突っ込むとまたみんなが一際大きく笑った。丁度その時に、松坂くんがお待たせしましたーと生ビールを五個持ってきて、テーブルの端に置こうとしたら暴れた課長がテーブルにぶつかり生ビールのジョッキがひとつ倒れ私に少しかかった。慌てる松坂くん。そんなことに気付かない課長は河野くんにプロレスラーがやるようなチョップをお見舞いしている。新山さんがゲラゲラ笑っている。近場にいた人達がおしぼりを投げて寄越してくれた。腹が立つ。落ち着こうと思い一旦廊下に出ると松坂くんが「本当にごめん。これクリーニング代に」と言って二千円を差し出してきた。
「いや、いいよいいよ。悪いのは松坂くんじゃないし」
「いや、でもさ」
「じゃあ、もらうわ」
「切り替え早いな」
「これで帰りにハーゲンダッツでも食べる」
「いやクリーニングしろよ」
「それは課長からもらうわ」
「しっかりしてんな。つうかじゃあ二千円返してよ。それ俺のポケットマネーなんだよ」
「いいよ」
「いいのかよ」
「じゃあ今度夕飯奢って」
「ん、あ、ああ、うん、いいけど夕方出勤で大体朝まで働いてるからな」
「休みとかはどうなってるの」
「まちまち。バイトのシフト次第で変わってきちゃって」
「予定合わないね」
「難しいね」
「この辺に住んでるの」
「いや荻窪
「遠いな」
「うん、遠いんだよ」
「じゃあやっぱり二千円もらおうかな。ハーゲンダッツ買って食べる」
「あ、ああ、うん。はい。いや、何個買うつもりだよ」
そんな会話をして連絡先を交換した。男として意識していないから何だか話していて気が楽で、軽口を叩けるのがいい。新しい飲み友達を見つけたみたいで気分がよかった。

「あ、ついでに私の飲み物オーダーしていいかな」

「うん。生ビールでいいのかな」

「あー、どうしようかな。ジャスミンハイで」

普段あんまり飲まないのに、その時の私はなぜかジャスミンハイを注文していた。