さよなら2019

2019年を簡単にまとめると【糞】という一文字が浮かんでくる。楽しいことはいくつもあった。けどいいことなんてひとつもなかった。総括すると糞みたいな一年だった。いいことがないのに楽しいなんて糞だろう。や、糞だらう。


や、や、や、そんなものは気の持ちようだ。と似非ポジティブ人間共は言うだろう。物事なんてのは捉え方次第で良くも悪くもなるものだと嘯くだろう。
そんな浅薄な考えはもう当然のように何周もしていて僕のそういうポジティブな部分はむしろそんじょそこらの似非ポジティブ人間よりも分厚くなっているのに、尚それを突き破るくらいの糞。糞だったのだ。

糞を糞と認めることも十全に前向きだと宣言させていただこう。

例えば、糞を糞と認めなければ糞は流れないでしょう?流す水圧が小便用だったら糞はバラけてより汚く便器に蟠るでしょうに。なので糞を糞と認めて大きな水圧で流しきることはスッキリくっきり生きていく上で限りなくポジティブ且つ合理的なactionなのだ。

しかも、糞な一年を過ごすことに由って、自分の覚悟や甘えや決断やあやふやながらに思い描く未来などなどにヒタッと気づくことが出来た。
なにがどうなるかまだまだわからないが、来年は確実に大きく環境が変わるだろう。や、変わるだらう。変えるでしょう。


そして年末らしく来年の目標を立てる。

この目標は自分の35年間の目標の中でも確実に一番大きなもので達成難度はSSSだ。しかし言うのは無料だし目標は高い方がいい。

 

2020年の吉本純の目標は【苛々しない】である。

 

これは相当に難しい。が、やってみよう。怒ることはあるかもしれない。苛々することと怒ることは違う。僕は来年苛々しない。苛々しそうになったらグッと堪える。そして穏やか笑顔と安定した精神を手にいれるのだ。


僕は感情の振り幅を大事にしている。それが上昇だろうが下降だろうが、その振り幅こそが生命活動であり人生だと思っている。しッかし、両親から引き継いだその激しい気性が僕の人生航路に荒波を、雷雲を呼び寄せる、もしくは自ら突っ込んでいくこと(九割が後者。単なる自業自得)が多分にある。
そのせいで誰よりも繊細で感受性、共感性が強い。感度ビンビン。という僕の唯一の長所が霞む。霞むどころか天界に召されている状況である。

 

薄暗い人物で申し訳ないが、僕の心の中には『マジコロスリスト』と『イッショウユルサナイリスト』というものがある。
この2つは似て非なるもので、そこに登録される経緯は大体一緒ではあるが『マジコロスリスト』はいつか必ず復讐する、窮地に落としてやる、平然と追い越して侮蔑の笑みを浮かべてやる、もしくは一顧だにしないと心に決めた相手を登録する。
『イッショウユルサナイリスト』は、もう今後の人生で関わり合いになりたくない。なんなら僕の中での存在の抹消。そんな人は居なかった。と心に決めた相手の事を指す。

今年『マジコロスリスト』には仕事上から1名、『イッショウユルサナイリスト』にはプライベートから1名、仕事から1名の計2名登録された。

 

両リスト共に久々のことである。通常5年に1人いるかいないかくらいである。それがなんと一年で3名。『マジコロスリスト』はそれでも前を向いている。しかし『イッショウユルサナイリスト』はこんな後ろ向きな考え方はないでしょう?でも、ある。在る。


こういったものは、怒りからというより苛々がMAXになって起こる現象な気がする。言っておくけど僕は人間が好きだ。『イッショウユルサナイリスト』なんて真逆の事はなるべく避けたい。なので来年は苛々しない。


もしも僕がこの目標からぶれて尚且つ指摘してくれるなんて奇特な御仁は「苛々しておいでか?ひとつ深呼吸でもしりゃさんせ」と優しく声をかけて下さいな。


でわでわ。さよなら2019。