好きな話題

「もし無人島に行くとしてひとつだけ持っていけるとしたら何を持っていく?」とか「明日で地球が終わるとして何をする?」とか「人生の最期に食べたいものはなに?」とか、こういった話題で会話を楽しんだことはないだろうか?
いやないです私は狼に育てられたんでワオーン、僕もないです忍として友人を殺すのが最終試験みたいな殺伐とした里で育ったのでニンニン、とかではない限り一般的な現代社会で暮らす者ならば必ず一度はこういう会話をしたことがあるはずだ。

 

僕はこういう詮ない話題が大好きなんですよ。


しかし、こういう話題があがり今から皆で喧喧で囂囂な侃侃に諤諤の情熱的な議論をしようとしているのに、中には「くだんない」とか「わかんない」とか「そんなんありえない」挙げ句「時間ん無駄」等と抜かす賢し気を装ったその実、ド低能の盆暗阿呆垂れ思考停止人間がいたりする。
こんな奴は、直径一m高さ二mの透明な円柱の中に閉じ込めて、その中はもう蒸ッし蒸しで、そこにいる1000匹放った蚊にいっぱい刺されちゃえばいいのにと思う。痒がる顔を見ながら冷たいチャイでも飲みたいよ全く。

 

世の中には物事を効率的に行うこと、合理的な物事を行うこと、さらにそれらをクールにシュッとやることに拘泥して、物事や時間を浪費する事や者を下の下と見下し自分の物指しでランクを作成、せっせと他を振り分け、安堵を得る。みたいな人が少なからず存在するけれど、そんな奴はもう何ていうかマジで豎子。
昔の賢人が言ってましたよ、人生における夾雑物にこそ真価があると心得よってね。まあ今僕が作りましたけどね。無駄がなけりゃ意味がないでしょうよ生きてる。人生無駄が多い方が諧謔味があるってもんよ。楽しみの前では時間など弊履のごとく使うべし。

 

こんなことを言うと、お前みたいな虫螻が何を言ってんだかと嘲笑してメンタルの平静を保とうとする輩が必ずいるけど、そんな胡乱な使い古された文句、骨董品の罵倒など僕まで届きません。なぜなら楽しむのを是としているからです。

 


今日はちょっと難しめの言葉を使ってますけど、何故かというと意味などないんですよ。ね、無駄でしょう?でもどういう意味なんだろうと検索したりするでしょう?ね、この無駄が具現化したようなブログもこうやって意味が生まれる訳ですよ。もしかしたらそれが夫夫の生活の何かを豊かにするかもしれない。ね、夫を二個繋げて「それぞれ」って読むなんて知らなかったでしょう?そういう事ですよ。


話がややこ、しいので本日の主題は何だっけ?となった方にもう一度記すと、詮ない話題です。
僕はこれが好きなんですが、上記のド低能の盆暗阿呆垂れ思考停止人間は話にならないとしても、一歩進んで、僕は分かってますから、こういった愚を楽しめる、愚に染まれる心の余裕がありますのんじゃ。という輩も少なからずいて、こういう奴も許せない。


どういうことかと言うと、例えば「人生の最期に食べたい物はなに?」という話題が上がったとしよう。真にこの話題を楽しむのなら、自然と疑問が湧くはずなのだ。

それは衰弱して死ぬ前なのか?病気で死ぬのか?いつ死ぬかわからずに決めるのか?食べたから死ぬのか?ひとりで食べるのか?飲み物はついてくるのか?死刑囚的な最期に何食べたい?なのか、死んだあとの魂が消滅する前なのか?それとも人智を越えた存在に大きな両の手で全身を包まれ一時間に一cmづつ捻られてやがて死に至るみたいな非業の死を遂げる前に用意される物なのか?とか、全ての場合で食べたい物も違うし、例えばそれが天ぷらだったとして「天ぷら」といえば色んな種類の物が出てくるのか?海老の天ぷら一尾だけなのか?天ぷら定食といった場合はどんな主菜に副菜、汁物などがついてくるのか?ご飯はおかわり出来るのか?具体的に店を指定するのはアリか?など、こういった細かいところまで詰めて漸く意味のある無駄になるのだ。空想は詳細で初めて意味を為すのだ。
それなのに一歩進んだド低能の盆暗阿呆垂れ思考停止人間はなんの疑問ももたずに「お母さんのカレー」とか宣うのだ。ナゲカワシイネ。


いやお母さんのカレーでいいんだけど、上記の詳細を経た上でお母さんのカレーなのと、凡て吹っ飛ばしてのお母さんのカレーじゃ雲泥の差があるのよ議論に。後者だと、あんまり美味しく作れなかった日のお母さんのカレー出てくるよッ!?いいのッ!?それでッ!?よくないよね!


あまり強弁しても、このような事をつらつらと述べると気難しい奴と勘違いされるので終わる。


因みに僕の人生の最期に食べたい物は、お母さんのカレーです。